私のメモの取り方

以前はメモをとるのが苦手でした。人の話を聞きながらそれを手で書くという、ふたつのことが同時にできず、他の人がせっせとメモを取るのを横目で見ながらまったくメモはしていないことが多かったものです。

しかしながら相談員になるとメモをしないわけにはいかず、メモを取りながらお話を伺うということをしていたら、自然に会話とメモを同時にとることができるようになりました。

私のメモを取り方は

◎大きな紙に書く
小さなメモ帳に書くと大抵いっぱいになるし、小さな紙はどこかへ行ってしまうことが多いのA4の紙を使います。

◎お気に入りのボールペンを使う
ボールペンの先って、本当にいろいろな種類があって、先が細いと紙に筆圧が食い込み、まるで彫刻刀で掘っているようになります。また細い先はインクが薄く出るので、一見字がきれいに見えますが、私は好きではありませんが、きれいな筆跡を残したいときはいいかもしれません。私はボールペンを買うことがなく、全部啓発物品や販促品のようないただきものです。その中のお気に入りばかりを使うので、1本全部インクを使い切ることも多いです

#ボールペンってたいてい失くしたり、インクが出なくなってしまったりすることが多く、1本使い切るってなかなかないと思いませんか?

◎いらなくなった紙などを目玉クリップを使って綴じておき、いつもそばに置いてあります。

◎やっぱりスクショも便利よね(笑)
教員をしている友人から「この頃の子はメモを取らず、全部スクショ(スクリーンショット)やスマホのメモに残すから、手でメモるということができない」と聞きました。時代はそのように動いていますね。私も外での掲示物や時刻表はスクショです。やっぱり便利です。

ここからは仕事のメモの取り方↓

◎重要な部分はアンダーラインを引いたり、〇で囲む
メモはたくさん書きますが、重要な部分だけ囲っておけば後から見直したときにそこだけ見ればいいようになっています。

◎関係性などは図式化する
家族関係は伺いながらささっとジェノグラムを作りますージェノグラムについてはこちらを参照ください。

家族以外でもいろんなものを図式化するとぱっと見てわかります。

◎住所や電話番号などの個人情報は一番上に書く
後から見たときに探さなくても済むように、お話の後から出てきても個人情報は一番上です。そのため最初から上の方は空けておきます。

◎お話が飛ぶときは矢印線を多用
多くの相談者の方は話が飛びます。「その時にそう仰ったんですか?」と伺うと「あ、それはこの時ではなく、もっとずっと前。5年前くらいです」といったようにかなり自制があちこちです。相談員はこのあちこちの自制に慣れていますから、思い出す順に話していただいて大丈夫です。同様に主語が抜ける場合というのがあります。「って言ったんですよ」「誰が?夫が」「いえ、そうではなくてー」とじれったそうにお話になるのですが、お話される方は主語が抜けることが多くて、本人は相手もわかっているつもりでお話されていますので、じれったくなるようです。

#講座のチラシを作っていて、「若い人たちはスマホでQRコードを読み取って後から見る」という話がスタッフからあり、チラシにQRコードを付けていました。QRコードの作り方はこちら。
右クリックしてコピペして必要なところに張り付ければOK。

これはあくまでも私のやり方ですが、とにかくメモは大きな紙に割と大きめの字で書いていきます。昔一緒に仕事をした年下の若い同僚がこの方式で、とてもよく仕事のできる人だったのでまねてみました。

目の前で見る戦争

両親からは戦争のことは本当に耳にタコができるほど聞きました。ただ、戦闘機からの爆撃や、極度の食糧難を経験している母と、農家だったこともあり、あまり食べ物に不自由したことのない父では語る内容も違います。

ウクライナの戦争はこれまでと違い、市民が自ら撮影したものをネットに投稿するといった、情報を拡散させることが武器をひとつになっています。

考えてみたら、自分の周辺で起きていることをwebで公開することをしたのがモラハラが大きく広がっていった理由のひとつだったと思います。今までは親や友だちに愚痴っては「あなたにも悪いところがあるのでは」「どこも同じ」と言われて終わっていたのが、自分に起こっていることをネットのあちこちに披露したら「うちも」「うちも」という大きな賛同の波がこのモラハラの広がりに繋がったと私は思っています。

「モラハラ被害者同盟」が始まったばかりの頃、掲示板に投稿されたひとつに私の目が釘付けになりました。

「また始まった。今度は何なんだ」という投稿です。

ああ、私と同じだ。夫が急に口をきかず、不機嫌になった時にいつも思うことでした。

「今度は何なんだ」

不機嫌になった理由がわからない。その前に何があったのか、思い返してもわからない。「今度は」というからには何度も繰り返されていることを意味しています。私と同じ思いをしている人が同じ日本にいたんだ。これは大きな発見でした。

夫と同じ人がこの日本にいるんだ。それも結構たくさん。

同じようにウクライナの戦争は、市民ひとりひとりが自分の目の前で起っている出来事をネットに送っていることが今までの戦争と違っています。

オリパラの時にしつこく言われたのが「SNSに投稿しないでください」でした。記念写真の撮り方という指導もありました。写真は映りこんだ人がネットに公開されたくない場合もありますので当然かと思いますが、結構いろいろな(オリパラ委員会にとっては困った)情報がTwitterに投稿され、(私のとっては)とても役にたったこともありました。

その投稿を見た人と見なかった人の間には「すごく得をした人」人と「損をした人」に分かれました。後から「知らなかった」「見た人だけが得をするなんて不公平だ」という声がネットに投稿されました。私は得をした方でした。

情報はとにかく取る。片側だけでなくあらゆる方向から取る。それを自分なりに精査して動く。動かなければ取らないのと同じ。

太平洋戦争の時、市民が生きるためには口コミという方法で情報を取り、人知恵を駆使して暮らしていました。

村上春樹ー「ハナレイ・ベイ」

村上春樹は読書の好きな方なら当然のように読んでいるでしょうが、私は小説よりもノンフィクションなどのジャンルが好きなもので、手にとる機会がありませんでした。超ベストセラー「ノルウェイの森」もしかり。「1Q84」はDVを扱った小説だと聞き、読んでみようかと図書館に行くと、1巻が薄汚れていているのに比べ、3巻はそれほどでもない。司書をしていた同僚に聞いたら「みんな途中で挫折するから、3巻までたどりつかないのよ」と。

そうか、みんな挫折するのか。だったら当然私も挫折するであろうといまだに手にとっていません。時間ができたら読もうと思っている本のリストに入れておく、と。

長編は無理でも短編ならと図書館で手にとったのが「東京奇譚集」でした。「ハナレイ・ベイ」はその中のひとつです。他のものはみんな忘れてしまったのですが、これだけは強烈な印象がありました。

と思ったら、世の人みんながそう思ったのか、映画化されていました。

https://sheage.jp/article/41007

このお話に惹かれたのは、主人公のシングルマザー、サチは自分の子どもが嫌いだったということ。自分で育てたわけだから、いくばくかは自分にも責任があるとはいえ、息子の生き方、人格がとても好きにはなれないこと。

その息子がハワイの「ハナレイ・ベイ」でサメに襲われ、片足を食いちぎられて亡くなってしまいます。そんな息子の幽霊が出ると聞き、彼女は命日の度にハナレイ・ベイにやってくるのですが、自分には見えません。なぜ他の人には見えるのに、自分には見えないのか。

なぜ、嫌いな息子の亡霊が見たいのか。

じれったいほどに死んだ息子に会いたい母親。大嫌いだったのに会いたい母親。

私も母親のひとりですから、この気持ちがすごくよくわかって、忘れられないお話になりました。短編ですのですぐに読めます。よろしければどうぞ。

コロナ隔離のあれこれ

友人の姉弟が愛媛県今治市で濃厚接触になったそうですが、3食お弁当が届くそうです。そのお弁当がそこそこまぁまぁ。普段きちんとした食事をしている方は「えーー」かもしれませんが、これが無料で毎食届くのですよ。私はいいと思うなぁ。ご本人は何も症状がなく、蟄居生活しているそうです。

東京都に住んでいる私ですが、身近でコロナ感染に遭った人は今のところ誰もいません。私だけでなく周りもみなそう。かろうじて「知り合いの知り合いが濃厚接触者になった」「子どもが学校でもらってきた」という話をチラホラ聞く程度です。

昨年の暮れは「孫に会いにサンフランシスコに行ったら、行きは大丈夫だったんだけど、帰ってきたら空港からそのままバスに乗せられて知らないホテルに監禁された」という話を知人から聞きました。

幸いだったのはホテルの部屋が結構広くて、圧迫感がなかったことだそうです。「でも、空港からバスに乗せられた時に『どこに行くんですか』と聞いても教えてくれなくて、どこに連れていかれるかまったくわからず、ちょっとドキドキした」

結局は首都圏のホテルだったそうですが、その時の食事が写真を見ましたが悪くないものでした。

#きっと写真に撮ってインスタにアップする人とかいるんだろうなぁ

彼女はしきりに「国民の税金を使ってこんなことしてもらってごめんねぇ」と繰り返していました。当然ホテル代も食事代も無料だったそうです。でも不思議なのはバスがどこへ行くのかをまったく教えてくれなったこと。教えたら乗客が抵抗すると思ったのか、襲撃されるわけでもなく、なぜホテルに着くまで秘密だったのかがわからないままです。

コロナでホテル隔離になることもなく、3回目の春になりました。もうほうれい線がはっきりでるので、マスクを取るのがちょっと嫌かも。このマスク文化、定着したりして。

証明書・診断書はどこまで有効か

調停や裁判で夫から精神的に虐待された証拠として、公的機関で相談していたとか、うつ病になったなどの証明書を裁判所に提出することがあります。立証が難しいモラハラはこういった証明しかない場合が多く、これを利用する方もいることと思います。

ただ、心療内科の場合「うつ病」と診断書に書いてくれても、その原因が夫であるとまで書いてくれるところは少ないと思います。心の病気は検査をするわけではないので、受診した方の話だけで判断しますから、原因が本当に夫だけなのか、それとも他にもあって複合的なものなのかの判断は、1回受診しただけでは難しいからではないかと思います。

夫からの暴言や生活費をもらえないといった日々のストレスが、うつ病の原因だとはっきりと確証が取れるまで、医師は「夫が原因」とは書いてくれないでしょうし、医療とはそういうものだと私も思います。たった1度受診しただけで「夫の暴言によりうつ病を発症」と書く病院があったら、むしろ私はその病院の姿勢を疑います。

役所にも相談していた記録の開示を求める方がたまにいますが、その方が1回2回ではなく、足繁く何度も相談に来られ、事情をしっかり聞いて、非常に困難な状況にある場合などは喜んで記録開示の仕事をしますし、「何かありましたら協力しますから、ご遠慮なく言ってくださいね」とお声もかけます。

そうではなく、1回だけ来て「相談したという証明書が欲しい」と言われたら、証拠づくりに来たのかと思うし、役所もそういう人を嫌います(と思います)。

初診で「夫からの暴言によりうつ病」と書く病院から診断書をもらったら、証拠としようとした本人の姿勢を疑います。そういうことをする病院、人なんだと。

よく弁護士さんは「診断書はないよりマシという程度」と言いますが、こういった胡散臭い診断書は「ないほうがマシ」です。

モラハラは本当に立証が難しいDVですが、しっかりと思いのたけを「読みやすく←ここ重要」書いたものを持っていけば、変な診断書よりもよっぽど効果があると思います。

「避難応援プロジェクト」終了しました

3月26日、「モラハラからの避難応援プロジェクト〜効率よく安全に別居・離婚するための戦略会議」が行われ、今年度の事業が終了しました。

今回コロナ濃厚者になってしまったため次回へ変更される方がいらっしゃったことは今の時世を反映していました。濃厚接触者も外に出られませんからね。大変です。

さて、プロジェクトですが7人の方が参加されて、種々様々が質問がありました。毎回その回の色が違うというか、特色があるんですね。今回は家のことが多かったように思います。

特に印象にあったのは「単身赴任は別居に入るか」というご質問です。答えは残念ながら別居期間にはなりません。でもこの機会を逃さずに別居の事実を作りたい場合は、「一旦は家を出る」という話になりました。つまり「家の中はからっぽ状態」です。

別に家賃もかかるし、そんなもったいない、という私の心の叫びが聞こえたか、スタッフとして参加しているメンターが「私がそうでした。夫が単身赴任で他県に行ったのですが、離婚するためには別居期間が必要とのことで、弁護士からの指示でいったん家を出ました」という貴重な体験談が出ました。

そこへ知恵袋の弁護士よりの助言で「別居調停」という調停があるとのアドバイスが。円満調停、離婚調停、などに混ざって「別居調停」と言って「別居してしばらく頭を冷やしましょ」というものがあるそうです。

モラハラの場合は危険防止のため相手に知らせずに家を出るのが基本ですが、そうでない場合は別居調停をして正々堂々と別居するのもアリなんですね。

東欧に住む方のロシアへの感情

2019年、私は中欧から東欧へ旅行しました。最初の都市プラハは前から行ってみたかったところ。最後の地はセルビアのベオグラード。利用したのはアエロフロート・ロシア航空(以後SU)です。理由はオープンジョーという、往路と復路が違う都市の場合、他の航空会社では大きく値段が上がるのに、SUはそう大きく変わらないことです。

まず東欧の方々に「SUで来た」というと、「よくあんな危ない飛行機に乗るね」と呆れたり怒ったりする人が多かったのが印象的でした。さらにロシアへの憎悪は隠しません。同年代の方も「子どもの頃はロシア語を習ったけど、もうすっかり忘れた」「ロシアは大嫌い」と言います。

今回ウクライナが侵攻されましたが、昔からヨーロッパの方たちはロシアからの侵攻に対してひどく敏感になっています。実際「プラハの春」という大きな事件もありました。「プラハの春」についてはまた別の機会に書こうと思います。

とにかくロシア以外の国は、いつロシアが何をするかわからないという恐怖の中で暮らしているようです。もし今回ウクライナが征圧されたら、次はポーランド、その次はということになり、易々と「とりあえず降伏したら?後からどうにかするから」というわけにはいかないでしょう。ポーランドも他の国の話とはしていないでしょう。

ヨーロッパは地続きの大きな大陸です。ロシアの大統領がその大陸制覇を考えているという、歴史の中の大きな出来事の中にいる今。へたに動くと核爆弾のスイッチを押してしまう。私の人生の中でこんな大きな出来事が起こるとは思ってもみませんでした。日本も他国のことと考えず、身近な問題として考えなければならないですね。ロシアは海を隔てていますがお隣なのですから。

写真はベオグラード。私が撮ったコソボ紛争でNATOからの爆撃で壊された旧参謀本部です。1999年の出来事です。それをいまだにこうやって残している。テニスのジョコヴィッチは一度爆撃されたところは二度目はないとして、爆撃の間を縫って練習したそうです。

ときにんざぶろう

この間、何気なくYouTubeを見ていたらサイドバーにお勧め動画が出ていて、その中に「ふぞろいの林檎たち」がありました。懐かしい。昔大ヒットしたドラマです。

Fランクの大学に通う男子学生3人組と、看護学校に通う女子ふたり組、そして渡辺直美体形の女子大生の6人の物語です。

#そういえばこの頃、「男女7人夏物語」とか男女のグループのドラマが多かったような気がする

以前ここで書いた「岸辺のアルバム」は登場人物がしゃべる言葉が私たちが普通に使う言葉ではなく、何か違和感があると思っていましたが、この「ふぞろいの林檎たち」も同じ言いまわしなので調べたら、脚本が同じ山田太一さんでした。山田太一節ということなのかな。

さて、このドラマで大学生役をしていたのは中井貴一、時任三郎、柳沢慎吾でした。私はTBSは放送されない地方に住んでいましたので、リアルタイムには見られず、ずれた時期に見ました。ずれた時期に放送されるのは大抵午後4時からとか、日中働いていたら普通見られないだろうという時間に放送します。

リアルタイムで放送の時は大好評だったのは知っていて、時任三郎という人が人気だというのも知っていましたが、この時任三郎の読み方がわからない。でも、調べようという気まではならずそのままにしていたら、職場で同僚のふたりがおしゃべりしていました。

「不揃いの林檎たちのときにんざぶろうさー」

「それ、ときにんざぶろうじゃなくて、ときとうさぶろうって読むんだよ」

「えーーー、ときにんざぶろうだと思ってたーー」

「そうだよねー、普通そう読むよねーーー」

と二人で大笑いをしていました。

時任三郎という人がいて、どこまで姓でどこから名前なのかわからなくて、さて??と考えて、「とき にんざぶろう」とするか、「ときにん さぶろう」とするか。私も「どう読むのだろう」と真剣に考えていたら「ときにんざぶろう」にしたと思います。ただ、どう読むかというところまで興味がなかったから、深く考えもしませんでしたが。

日本語で名前は姓と名の間にスペースを空けるのが一般的ですが、姓3文字、名3文字の場合はスペースなしになります。姓4文字(たまにいる)、名2文字の人がいたら、どう読むのか考えますよね。

昔名簿を作る仕事をしていた時、7文字以上の人が来ないよう祈っていましたね。

死ぬわけじゃない

私が何かアクシデントがあった時、確かにその瞬間は「こりゃー大変だ、どうしよう!」と思います。「どうしよう、どうしよう、どうしよう」と部屋の中をウロウロするときもあります。そういう時は取り合えず時間をおいてからじっくりと考えることにしています。

そうすると「こうしたらどうだろう」「こういうこともできるんじゃないか」とアイディアが出てきます。アイディアが出てくるとなんとなく解決の方向が見えてきます。そうしたら後はやるだけですが、どうしてもできないこともあります。そんな時に思うのは

#これで死ぬわけじゃない

大きな損害は被ったけれど、これで死ぬわけじゃない

いやいや、死んだ方がマシという人もいますけれど、じゃ、死にますかと言ったらそうは言わないでしょう、普通。死んだ方がマシというフレーズを出しているだけで、本当に死のうとは思っていないはず。死んだら楽かもしれませんが、大抵は何とか乗り越えるものです。

こんな時に役に立つのは経験則です。私の年になればいろいろな経験則があります。過去に起きた出来事が私を救ってくれる。だからいっぱいいろんなことをして、いっぱい失敗した方がいい。道に迷った時も、いつか同じ道を通るから「あの時はこちらに行って失敗したから、こちらはダメ。こっちにしよう」という考えが出ます。

私はウロウロと知らない道に行くのが好きですが、不思議なことに後からその道に出くわし、しかも時間がなくて急いでいるということがよくあります。でも、前にその道は行ったことがありますから、見覚えのある建物や看板を目印に目的地にたどり着くということが数限りなくありました。

この急いでいるときに私を助けるため、過去の私が迷ったのだと思います。時間のある時に迷っておけば、いざというときに過去の私が助けてくれる。

どんなことでも最後の出てくるのは「これで死ぬわけじゃない」。死ぬのはもう少し先でいい、って思います。

オリパラのカチューシャ

私がオリパラでボランティアをしていた時、練習場でロシアチームと接することがありました。練習場は本番の会場と違ってそれほどピリピリした感じでもなく、選手や関係者は気軽に声をかけてきたりしました。

ロシアの若い通訳の女性(他はどうか知りませんが、通訳さんはみんな英語でした)が、ボランティア数名とちょっと雑談めいた話を始めたとき、ふと私はロシア民謡の「カチューシャ」を口ずさみました。

後から考えたら、「一週間」でも「トロイカ」でも「ポーリュシカ・ポーレ」でもよかったのですが、その時はこれしか思い浮かばず、とりあえず彼女に親しみの意味で歌いかけました。当然日本語です。

「うんうん」と聞いていた彼女は少し離れたところにいた年配の男性(コーチかな?)を連れてきて、私の歌を聴くように言うと、男性も「うんうん」と言って一緒にカチューシャを歌い始めました。

どうやらカチューシャは、ロシアの若い人たちの間では「聞いたことはあるけど歌詞がわからない」という感じのようなのです。

#私たちの世代は教科書にもあったせいか、まず全員歌えるけどね

それは日本の若い人たちも同様で、やはりハミングはできるけど歌詞がわからないようで、楽しそうに手拍子はするけれど歌えないのです。

通訳の方に「私たちの世代は学校でこの歌を習ったから、全員歌える。もしこの会場に『コロブチカ』が流れたら、私たちは完璧に踊ることができる」と言いました。

通訳さんはこれほどロシアの曲が日本人に知られていることを知って驚き、大変喜んでいました。何しろ他の国のチームもいるので、あまり大げさにはできなかったのですが、ちょっとした国際交流になりました。

このカチューシャやコロブチカを今聞くと、あの選手たちや通訳さんは今どうしているのかとあの時の情景が思い出されて涙が出ます。そういえばウクライナの選手もいました。

たった半年前に「平和の祭典」があったばかりなのに今は戦禍にある。

本当に切ない思い出です。