婚活焦らずにと思ったけれど

GWの真っただ中、夫と一緒に暮らしている方々は大丈夫でしょうか。今年はうまくやり過ごせそうでしょうか。とにかく少しでも平穏な時間が長く続きますように。

さて、沢山の被害者の方のお話を伺ってきましたが、結構多かったのが結婚年齢のプレッシャーに押されての結婚です。昔は女性をクリスマスケーキに例えて25(日)を過ぎると残り物と言われたものですが、さすがにこれはこの頃は無くなりつつあります。

その代わり多いのは、28~29歳、35歳前後の方です。30歳になる前に結婚したいとか、昔でいうマル高になる前に子どもを作りたいという方たちです。現在は40歳を過ぎても出産する方も珍しくありませんが、できれば35歳前までにと思って追われるように結婚し、実はモラハラ夫でした、という場合が少なくありません。

結婚を急がないで、無理に結婚しようとしないでと注意喚起しますが、どうしても結婚したい方は視野狭窄になっていて、届かないようです。

結婚しない選択もあるよねと言うのは、結婚を急ぐ方たちにとっては「余裕ぶっこいての発言」に聞こえるらしいです。最近たまたま婚活コンサルタントの方と知り合ったのですが(私は婚活してません。たまたまですよ、たまたま)、情け容赦のないお言葉がありました。

「婚活するならすましてたってダメ。どう自分を売り込むか、相手に選んでもらうか、それをとことん考えて」だそうです。そんな奴隷市場じゃないんだから、フィーリングが合えばいいんじゃないの?と思ったのですが、「結婚市場はまず検索から来る。女性が相手に求めるのはまず収入。男性は年齢。億単位のお金を持っていれば、50歳の人でも20代の人と結婚できる。女性が相手に一番に収入を求めたら、2番目のものには目をつぶる」のだそうです。

3高を選ぶなら、相手もあなたに3高を求めるというシビアな世界。横澤夏子さんは21歳から100回以上の婚活パーティに出席したそうです。

https://otekomachi.yomiuri.co.jp/enta/20180720-OKT8T91978/

どうしても結婚したいと思うなら、若ければ若いほど有利になり、30歳を過ぎたら、相手に求めるものは低くする、とにかく自分をアピールして選んでもらうようにするのが大事なのだそうです。

「下手に結構モテる人だと自分に価値があると思い込み、遅くなりがちなんだよね~」「結果、結婚できずにどんどん年齢が上がり、お相手の年代も上がる。50代でも30代以下の女性を求めるのよね。」

なんかサ、外国ではシワの数が多いほど美しく年を重ねた印っていうけどサ、婚活市場ではそんなものは見向きもされないよう。選んでもらえないことが続くと、本当に自己肯定感が低くなってしまうのだそう。

結婚はしなくてもいいけど、子どもは欲しいと、結婚しないで40歳を過ぎた方々は仰るけれど、そこに行くまでもかなり大変みたいです。

リベラル・アーツ大学でお金を貯める

「モラニゲ」や、モラハラ禍から抜け出した方の書かれたものを読むと、「経済の自立無くしては脱出はできない」とあります。もちろんギリギリまでがまんして、どうしようもなくなってから着の身着のままという場合もあり得ますが、これをしても必ず「経済の自立」は必須になります。

自由な時間が増えて、今まで音楽を聴くところだと思っていたYouTubeに、いろいろな情報や知識が落ちていることがわかりました。最近お気に入りで見ているひとつは「リベラル・アーツ大学」

発信しているのは「両学長」という30代の男性です。私は最初「両学長」だからふたりいるのだと思ってました(苦笑

ともかくお金に対する考え方が私と同じなので、まったく違和感がない。その考え方の上にお金を作る、貯める、増やすのハウツーが乗っかるので、とても興味深いです。お金の貯め方だけではなく、人生論も私と割と似た考え方なので「そうだよなー」と思います。

ただ、彼はミニマリスト。私は愛着のあるものに囲まれて暮らしたい派なので、捨てられない性分の私とは違う部分もあります。合理的にリンスを使わずリンスインシャンプーを使うというのもダメ。あれを使うと1回で髪がパサパサになる。

でも単なるケチじゃなくて、移動を快適にするため海外旅行にはファーストクラスで行く。

ともかく、「お金は使うために貯める」という考え方が一緒ですので、何の違和感もなく学長の講義を伺っています。

両学長がYouTubeに配信しているのは金もうけではなく、日本人に「お金に関する教育プログラム」を根付かせたいとの思いからだそうです。彼はもう超がつく富裕層の方で(資産5億円以上)他に従業員を抱える事業も行っていますので、YouTubeやブログやセミナーでチマチマお金を稼ぐ必要もない。

お金に余裕ができると仕事を選べる。自分のやりたいことだけできる。やりたいこととはお金儲けではない。若くして事業に成功して早期リタイアする人たち(「FIRE(Financial Independence, Retire Early)」が面白そうなこととは、美女を侍らせて豪遊することではなく、社会貢献や次世代のための育成だったりする。

とまぁ、もう夢の国のような話ですが、とにかくお金に関する知識はこの両学長の運営するリベラル・アーツ大学だけでいいような気がします。

私が好きなのはオリラジ中田さんが両学長に「海外に住みたいと思いませんか」という質問を投げたのに対して、「コミュニティが大事だから日本に住みます」と答えたこと。

昨今、ブログなどのネットで情報を発信し生活費の安い海外に住み、時々セミナーや講演会のためにLCCで帰って来て(彼らは合理的なので、飛行機は移動手段。よってLCCで良い)、安いカプセルホテルやゲストハウスに泊まり(合理主義だからホテルは寝れれば良い)、ひと稼ぎしたらまた海外に戻る。海外も一か所ではなく転々と変えるといったやり方が流行っていますが、安心で和やかなコミュニティの中で暮らすことはとっても大事だと思うのです。

「今日、駅前の肉屋でコロッケ50円の特売!」「行く行く!」というような、日本語で会話ができるコミュニティは心の平穏のためには欠かせません。どんなに語学ができても、心からの悩みを母国語以外で話をするのは難しい。「コロッケ50円!」という会話ができるまでその国の言葉を会得し、文化を学び、関係性を築くって、それはそれは大変だと思うんですよね。

両学長は30代ながらいろいろな経験をしてきて、この動画で語られるのはハウツー本や自己啓発本からの知識ではなく、自分の経験から話をしています。経験から得たものは、その人の個性と混ざり合って自分なりのリテラシーになると思うのです。

このリベラル・アーツ大学、サイトや本もあって、動画が見られない方はそちらでもいいですね。このリベラル・アーツ大学にはコミュニティがあって、

  1. 経済的に豊かになり
  2. 今よりも一歩自由な生活を手に入れること

が、理念だそうです。お金を貯めるということは、自由に一歩近づくということですね。

ちなみに私は1.5か1.25倍で見ています。時間は有限です。有効に使いましょう。

高校入試と男女差別

地方は都会と違って小学校受験も中学校受験もほぼありません。唯一あるのはその地域にある国立大学教育学部付属小学校や中学校の試験です。時には付属幼稚園もの時もあります。

東京に転居して、たまたま青山あたりを歩いていたら、子どもと一緒に歩いてくる若いお母様方の服装が揃えたように同じ、紺色のスーツなのです。それもリクルートスーツとは違う、明らかに上質でお高そうなスーツ。

ははー、これがいわゆるお母様用お受験ルックというやつかーと思いました。

#ホントに実在するんだね

地方には幼稚園受験というものはなく、願書をもらってきて記入するだけ。幼稚園は近場のところです。小学校は公立で中学は前に書いた教育大付属をねらうか、お嬢様が行くミッション系の中学へ行くかですが、もうほとんどは公立中学校です。

だから地方の場合、15の春が己が学力によって選別されるという、初めての試練になります。

みんな手を取り合って仲良く一緒には15歳まで。それ以降はたった1度の試験によって選別され、それぞれのルートの道を歩み始めます。

しかし!ここにしっかりと書いておきますが、私が高校受験をした時には、「女子の合格点」「男子の合格点」というものが存在していて、志望校を書くと、担任からは「お前が男子だったら合格だけど、女子なので難しい」と言われたことです。

40年以上前のことと言ってしまえば終わりですが、平然と女子と男子では差別があり、それが世の中では当たり前のことで、私自身も「こんなことで差別されるなんておかしい」とも思わず、当然として受け入れていました。

でも、もしこれが当然として世にあるならば、税金の支払いも男女差をつけて欲しい。公立高校入試の点は男子が有利で、税金は同じというのはおかしい。女性の場合安くするべきだろうと今は思いますが、当時は男女に差があることをごく普通のことと思っていました。

後年、学校関係者にこの差別について聞いたところ「男子は卒業後大学へ行く。女子は進学する子が少数で、それも地元の短大や専門学校で、進学率を上げられない。さらに、男子は就職して偉くなり、卒業生として学校の運営に力を貸してくれるが、女子はそれがない。だから男子を取りたいのは当然」と言われました。

何しろ40年以上前の、「女の子はいいお嫁さんになるのが幸せ」がまかり通っていた時代の話なので、時代背景もあるのだろうけれど、なんだかどうしようもない時代で生きていたんだなぁ。

地方の受験事情

こちらの続きです。

私が東京に来たのはもう子どもの受験が終わった後なので、東京の受験事情はそれほど知っているわけではありません。ただ、地方ならば頻繁に親同士で交わされる「あの子どこ?(出身高校)」が東京では聞かれないのです。

今施設に入居している母も首都圏に来て1年半経ちますが「誰かから何かを言われて嫌な思いをしたことは一度もない」と言います。ちょっとしたことでブツブツと文句をいう母がこういうのだから、少なくとも対人関係で嫌な思いはしていないようです。

私も同様に、いろいろな方とお付き合いをしましたが、職場のパワハラ上司を除いて、対人関係で嫌な思いをすることがほとんどありません。すれ違いざまに怒鳴られたとか、そういう密接でない関係でのことはありますが、友人同士で罵り合うとか、陰口を言われたとか、そういう思いをしたことがないのです。ただ、陰口は誰かを介して聞こえてくるものですが、それがないという意味です。たぶんいろいろと言われているだろうとは思う。

さて、入学試験ですが、地方に「塾」というものはありますが、小学校から通っている人はほとんどおらず、大抵中三の部活が終わった後、夏休み前位から始めるのが普通です。大学受験も塾や予備校はありますが、受験する人全員が通うというものでもなく、放課後に学校の方で補習をやって下さるので、それで勉強するのがほとんどです。先生方に負担がかかっているという意味では申し訳なく、ありがたいと思います。

東京に来て、お隣の方のお子さんがちょうど中三、高三で、立ち話をしていたら「塾代、毎月10万かかるのよ」と仰るのを聞いてびっくりしました。それも三年生だからというわけではなく、小学校の時からその状態だったそう。

子どもの塾代に毎月ひとり5万円もかかったら、ご飯は味噌つけて食べなきゃいけないじゃんと思っていたら、「毎月だけじゃなく、夏季、冬季講習はそれ以上にかかるのよ」と言われました。

私の住居はごくごく庶民が住むような集合住宅ですから、生活水準は高いわけではありません。その後、いろいろ話を聞いていくと、お隣の方は特別教育にお金をかけているわけではなく、都会ではごく普通のことであることがわりました。

午後9時過ぎ、駅前の進学塾からぞろぞろと小学生の子どもたちが出てきて、コンビニで食べ物を買い、駅に向かっていく風景。これは都会では普通のことです。

これがいいか悪いかと言われたら、いいわけはないがみんなそうしているから、自分の子どもだけ何もしないわけにはいかないということなのでしょう。

つくづく地方で子どもを育ててよかったなぁと思います。

ただ、地方にはへばりついている「高校名による差別」に関しては、これは東京の方にはわかってもらえないかもしれません。

人生は思い通りにいかないもの

こちらの続きです。

私がいたところは、会社の名前を言うと「わぁ、いいところに勤めていますね」と言われるような大きな組織で、福利厚生も退職金制度もしっかりとしていました。定年退職まで勤めたら、充分な退職金と年金で、趣味三昧の悠々自適な生活ができると思っていました。なぜなら先輩たちがそうだったから。

ところがいきなりやってきた社会変化に翻弄され、働き方も、収入も、大きく変わっていきました。それについていけない人は自ら辞めるか、辞めさせられる方に持って行かれました。いつもいつも誰かが辞めていく。

青春時代、花の〇期女子と仲よく遊んだ友人たちが、青白い顔をして、「この先、どうしようか」とため息をつく。

とはいえ、女性は生活をどうしようかという危機感は男性に比べてなかったと思います。なにしろPCを覚えるよりも退職を選ぶような安定した収入が夫にあるのでしょうから、それほどせっぱつまったものではなかったのでしょう。

配偶者が看護師や美容師などの資格を持っている男性は、他の男性陣から「いいなぁ」と言われていました。

女性たちは「嫌になったら辞める」「どっかでパートでもする」というのがランチでこの話題が出た時のいつもの締めくくりの言葉でした。

それもなんだか深窓の奥様方の、世間を知らない言葉のように思えました。私のママ友はみんな必死で夜昼働いています。夜9時過ぎにどこかの事務所の掃除に行く人。コンビニのお弁当を流れ作業で作っている人。ホテルのベッドメイキングをしている人はいつも腰痛に悩まされている。この職場がいかに恵まれているか、わかっているのかなと思いました。

何より私は子どもを育てていかなければならない。主生計者として生活費を稼ぎ、子どもの学費を何としても稼がなければならない。年齢も高くなり、東京と違って働くところがない地方で、今と同じ条件の職場があるとは到底思えませんでした。

意外だったのは、遠くに飛ばされた人たちで、男性は当然のように単身赴任をしていましたが、女性も同様に現地に部屋を借りて単身で暮らした人が多かったことです。あんなに簡単に辞めるわと言った人たちが単身赴任をしたのは、子どもが成人だったこと(いかに就業年齢が高かったかわかりますよね。辞めさせたくなるわけだ)があります。

しかしそれも長く続く人はおらず、結局キレて辞めていきました。

あの80年代、きゃぴきゃぴと楽しく働き、将来の不安なんかなかった時代。そのころに思い描いていた人生の終末期を送っている人は誰もいません。誰ひとりとしてこの未来を予測できた人はいません。もちろん私も。

思い通りの人生なんかありません。10年後も20年後もわかりません。だから不安と不安と唱えるよりも、その不安に対してどうするかを考えた方が、ストレスが減ります。それが生きるかどうかはわからない。でも、大抵やったことが全部無駄にはならないことは、今までの経験でわかっています。

そして避けきれないものは受け止めるしかないこともわかっています。

そういうもんなんだなぁとわかっただけでも、年をとったかいがありました。

先のことは考えない

こちらの続きです。

この中にあるように、私にはいつリストラ対象になるかもしれないという不安がいつもありました。上層部に「コネ」のある人はその不安はないでしょうが、元々そんなものはない、その他大勢のひとり。とても不安でした。

ところが同僚たちにその不安の話をしても、あまりピンと来ていません。「辞めさせるときに遠方に転勤させるのは常套手段なんだよ」と言っても、「まっさかぁ」とまったく現実感がない。

新聞やネットには絶対に通勤不可能な場所に転勤をさせられたという話はごまんとあるのに、「そんなひどいことするわけがない」と言う。あったとしてもそれはオトコにやることで、オンナにやるわけがないと思っている。

なぜそう楽観的に「あり得ない」と言うのか、本当に不思議でした。私が心配性すぎるのかもしれないけれど、とにかくその時のための準備はしておこうと思っていました。

そして月日は流れ、職場も昔のようなのんびりしたものではなく、効率優先、成果至上主義があっという間に入ってきました。その間10年ほど。10年間で職場の雰囲気はまるで変ってしまいました。

日中ゆったりと仕事をして、残業代を稼ぐというようなことはできなくなりました。私は元々18時30分にはテーブルにごちそうを並べておかなければならない生活でしたから、残業はありません。前任者が「繁忙期には24時を回らなければ帰れない」という内容の仕事も、PCをフル活動させて定時に帰っていました。

職場にはPCを使わなければならない仕事がものすごい勢いで増えていきました。「PCを覚えないと後で困るよ」と言い続けていた私に「その時になったらやるから」と嫌な顔をしていた人たちはPCを使いこなすことができず、結局次々と辞めていきました。

PCを覚えるより辞める方を選ぶという、配偶者にも自分にも余裕のある奥様たちが多かったということです。私にはそんな選択肢はない。とにかく働き続けること、何としてもこの職を追われないようにすること、そして追われた時のために資格を取ろうかと考えていました。

そして私の心配通り、上層部は辞めさせたい人たちを遠方に飛ばし始めました。小さな子どもがいる女性も対象になりました。予想は当たり、「夫が大きな会社や公務員で生活が安定している人」が優先的に選ばれて飛ばされました。優秀であろうがなかろうが、ともかく人員整理をしたかったようです。

ところが幸か不幸か、その時私はすでに離婚をしていたので、この優先順位からははずれることになりました。さすがにシングルマザーを遠方に飛ばして辞めさせるのは人道的ではないと思ったのかもしれません。

仕事はやっただけ身になる

こちらの続きです。

頼まれても嫌なら断るべしと言っても、世の中そう簡単にはいかないもの。特に職場や交友関係はきっぱりできないこともあります。特に仕事の場合は自分の仕事でキツキツだろうが、上下関係や、自分がお願いしなければいけないことも後から出てくるかもしれないと思うと、そうそう無下にもできません。

その時は、自分のスキルを上げるチャンス到来と思って引き受けてみるのも手です。「チャンス到来」と思いこむところがミソ。やりたくない仕事を嫌々引き受けるよりも、どうせやらなければならないのだったら、面白そうと思ってやってみてはどうでしょう。仕事はやればやるほど身になり、自分の武器が増えます。特に新しい仕事だったら、こちらから望んでもやってみる価値はあります。

もちろん新しい仕事というのは手探りが多いし、調べものもたんまりある。でも、そこで必ず身につくものもあるし、うまいこといけば人脈もできるかもしれません。

うま~く仕事から逃げる人はいるものですが、そういう人はやらない分、スキルが低い。結構人は見ているもので、一生懸命仕事をしている人はそれなりに評価してもらえているし、そうでない、うまくやっている人は「あの人、いっつも楽してるよね」と、陰口のネタになっているものです。その陰口は回りまわって権力者のお耳に入るかもしれません。

私はモラハラを知った時に、「HTML」という技術を持っていました。当時ブログなどというものはなく、ネットに情報を流そうと思ったら、HTMLの知識が必要でした。

私がこの知識を持っていたのは、ある出来事がきっかけでした。

ネット仲間がオフ会を行うことになりましたが、何しろモラハラ生活で、泊りがけの旅行なんかできるわけがない。他の在宅組と一緒に家でため息をついていました。行きたかったなぁー。

オフ会が終わってから「めっちゃ楽しかったよーーー」の報告メールに、多数の写真が添付されていました。すると「このオフ会の写真、アップロードしたらいつでも見られるよね」と誰かが言い出しましたが、はて、アップロードとはどのようにするものなのか、さっぱりわからない。それはみんな同じで「?」「?」「?」

ちょうどその頃、私は職場で不安がありました。私の職場は先があまり明るくないところだったので、共稼ぎの人はその時、人員整理の対象になるのではないかという不安です。特に私の元夫は大手に勤めていましたから、私はこの対象になりやすい。女性の場合、本人の実力よりも、その家の経済状態の方を優先させる傾向があるので、私はいつその言葉が来てもおかしくありません。

辞めさせられたら夫の希望通り家にいることになり、常に夫が言う「誰のおかげでメシが食えると思っているんだ」の言葉に怯えなければならない。経済力を失った私が丸腰になり、それまで以上に夫が高圧的になるのは目に見えていました。

何か武器を持たなければ。私にしかできない武器を持たなければ。

これは結婚した当初から思っていたことです。だから将来のためにPCの技術を磨きました。

それにHTMLの技術を加えてはどうか。

写真をアップロードするだけでなく、HTML化して、サイトのように見られるようにしてはどうか。技術を得られることと、みんなを喜ばせることの一石二鳥です。

「わたしがやる!」

何しろナマケモノの私のことですから、誰かに尻を叩かれるか、自分で人参をぶら下げるかしないと動かないのはわかっています。だから自分で自分の尻を叩くことにしました。

HTMLの本を買ってきて、手探りでオフ会の写真をサイト化しました。ひとつできると、また新しいタグの知識が入って来て最初からやり直しを繰り返し。完成までなんと半年かかりました。幸運だったのは職場にこの技術を持っている人がいたので、わからなくなるとお昼休みにおやつを持って聞きにいくことができたことでした。

そしてできたオフ会のサイトはアップロードではなく、CD-ROMにして参加者に配りました。最後のページは、スターウォーズのように宇宙空間にみんなの名前が飛んでいくデザインにしました。

「待たされたかいがあった」とは口の悪いメンバーの喜びの声。

これを契機に、仕事でもHTMLを使って「ダウンロードセンター」を作り、いちいち他部署へ用紙をもらいに行く手間を省き、用紙に手書きをするのではなく、wordに自分で打ち込めるようにしました。また、職場のHPの一部を作ったりしていました。

職場には電算管理者(レトロな名前だ)はいたのですが、なにぶん夢も希望もない殺伐としたオトコで、「きれいで見やすくて便利なHPを作る」という概念すらなかったのです。

知人の保育園のサイト作りはとっても楽しいものでした。子どもたちの写真を載せるために何度も保育園に通ったのですが、そのたびに子どもたちと触れ合えて、乳幼児は抱っこさせてもらい、サイトに沢山の子どもたちの笑顔を載せることができました。(セキュリティの問題については、保育園側との話し合いにより、妥協点を見つける)

そしてモラハラを知った時、すぐにサイトを作ることができたのは、この経験を通してHTMLを使うことができていたからです。もしこれがなかったら、「モラル・ハラスメント被害者同盟」は誕生しなかったかもしれません。

何事も準備が大事。自分の引き出しは増やそう。スペシャリストにならなくても、底が浅い知識でも、沢山持っていれば後から何かの役にたつことは、きっとあるものです。

自分の限界

こちらの続きです。

人から頼まれて断れないというのは、常日頃から自分の限界値を知っておくことです。私は鬼でも蛇でもないから、頼まれたらできることならばやってあげたい。でも、自分の性質と限界は知っているので、頼まれた時は瞬時に考える癖がついています。

◎それは私の能力でできることか
◎その時間的余裕を今持っているか
◎それは私にしかできないことか
◎それは継続的に行うことになる危険性はないか

特に4つめ。一度引き受けるといつも「それは熊谷の仕事」にされてしまう可能性のあるものは、余裕があっても引き受けません。これは自分を守るためです。自分があっぷあっぷなのに、人助けはできません。

人助けは自分に余裕がある時だけするものです。それなのに、人を好くしてなんでも引き受けてしまうとずっと「いつもやっているからあなたの仕事」にされてしまい、「今回はダメ」と断ると、「えーー、なんでーーー、いつもやってるじゃん。急にそんなこと言われても困るーーーー」となる。そして「人が困っているのに助けないあなたはひどい人」になる。

これが見えているから、最初にお断りした方が結局は傷が小さくて済むのです。


三世代同居の秘策

東京に来て周りを見渡しても、相談に来られる方の話を伺っても、三世代同居の方はあまりいらっしゃいません。同居の場合も都会での三世代同居はほとん1階と2階で分けていたり、玄関から別だったりする2世帯住宅です。地方にあるように、水回りもすべて一緒、完全同居の形はあまり見受けません。

私は結婚するときに「親と同居」を求められました。その頃、同僚も友人たちも同居する人が多かったので、それを何とも思わずに受け入れましたが、変人の義父から「お前ら親を利用しようと思っているのか」と断られたので、むしろそのお断りをありがたくいただきました。

相談員をしていたしていた時に、義両親との付き合い方のお話をとても少ない数ですが伺いました。とにかくすべてに過干渉であると。それでも遠距離の場合は離れている分深刻度は高くありませんが、近場にいるとそういうわけにもいきません。

仕事をしているといつもは保育園なのでいいけれど、子どもが病気をした時などは頼らざるを得ない、だから決定的に決別するわけにもいかない。そして義理とはいえ夫の両親なのだから大切にしなければいけないという思いもある。

私はこういうお悩みのお話には私の郷里の話をします。

私が元働いていた職場は、女性が結婚しても子どもが生まれても離職することがない所でした。そしてんな結婚すると多くは三世代同居をしました。共働きで夫婦収入を合わせると、かなりの額の保育料がかかります。2人、3人子どもがいると「保育料のために働いているようだ」と同居していない人たちはため息をつきます。

それが同居だと必要ないし、子どもが病気で幼稚園を休むなどの時にも即座に対応できます。なにより義両親が「かあさんは稼いで金とってこい。子どもは見てやる」と言ってくれるので、お言葉に甘えてそのようにしています。

それゆえ三世代同居の同僚たちは時間を気にせずゆったりと仕事をし、時にはしなくてもいい事や効率を全く考えない仕事をして残業代を稼いでいました。「早く帰るとご飯の支度を手伝わなきゃいけないからさ」と、ランチの時には言っていました。

とは言え、やっぱり文化や時代が違う義両親との生活は苦痛の方が多く、下の子どもが小学校に入るやいなや、まず妻が家を出て、夫がそれを追いかけて出るということが始まります。そして少しの間アパート暮らしをして、次に家を建てる。夫は本宅と愛人宅を行き来するように妻がいる家と実家とを往復します。たぶん実家の親に不満やイヤミを言われながら。

これが多く家で行われるので、私も何とも思っていませんでした。子どもが大きくなったら同居は解消するのがごくごく普通だったのです。

#よもや介護を放棄して家を出るとは思っていなかった義両親の憤りやいかに

もちろん義両親と仲良く暮らしてずっと住み続ける人も、少数ながらいましたが。だから私の元義父が「親を利用しようとして」というのも、あながち誤解だというわけでもなく、おそらく元義父は知り合いの家がその状態なのを知って同居を断ったのかもしれません。

「私の故郷では『子どもが小さい時は面倒をみてもらう。その後は疎遠になる』が普通なのよ」と相談者の方にお伝えすると、「へー、そうなんですか」と仰り、かなり罪悪感が軽減されるようでした。

今私は孫がいてもいい年ごろになり、もし子どもが子育ての助けを求めてきたら、喜んで受けると思います。もちろん介護目当てではありません。あのぷくぷくとして手に触って、柔らかな体を抱くことができたら、それは本当にありがたいだけです。(毎日24時間は困るけど。たまに数時間ならというわがままな夢)

私の体が動かなくなった時のことは、もう考えてあるので、当然一緒に住んでもらっての介護はありえません。私だって母を施設に入居させているのだから。母が変なのは、自分は義両親も実親と同居したことも通って介護したこともなく、きょうだいの配偶者におまかせだったのに、なぜか自分は子どもの家族と同居して介護してもらえると思い込んでいたことです。不思議やね。。

子どもと同居すれば当然老後は安泰と思っていた世代の方は、厳しい世の中になったと思って、自衛していただきましょう。

何でも時代を先読みするのが大事ヨ。

更年期さまざま

私の周りで更年期の悩みを聞くことが多いです。その症状は様々で、ひどい人になると仕事を辞めなくてはならなくなった方もいました。

更年期障害は閉経前後10年で現れるものですが、実は私はこの障害がまったくありませんでした。ちなみに子どもの反抗期を体験したことのない方は、子育ての辛さの何パーセントかを味わうことなく過ごした幸せな方だと思います。私は更年期障害がない幸せな人です。

反抗期のなかった子どもは後から反動が来るとか、それ自体が問題だという人もいますが、私の周りに限って言えば、反抗期なく育っても、何ら問題なく人生を送っている人も結構います。

私は反抗期がなかった人というのは、親からの抑圧がものすごくて反抗できなかったか、反抗する理由がなかったからではないかと思っています。親子関係がものすごくうまくいっていて、意思の疎通もスムーズ、親からの無理な抑圧もない場合は、反抗する理由がない。

「それっぽいものはあったけど、1週間くらいだったかな」という人もいました。

さて最初の更年期障害ですが、私はまったくその症状がなかったので、苦しい更年期障害を経験しておらず、何も言えません。「まったくないんだよねー」と同僚に言ったら「貧乏に更年期なしって言うよ」と言われました。

#うう、当たりすぎていて何も返せない

#生活するのに夢中で、自分の体に変化を気にすることもできなかったかもしれない。

ともかくとても生活に大変だった頃と更年期の時期がぴったり重なったので、この言い伝えはありかなと思っています。

今更年期でモラハラ渦中にある方は、とにかく自分の体優先にして(難しいかもしれませんが)、専門病院に行くなどしてくださいね。