行く道が決まるとき

何か新しい道ができるときは、不思議なことにすべての事柄がそれに向かって開き始めます。自分で作ると言うよりは「開く」。そちらにしか進めないようにできているみたいです。だとしたら、無理して流れに逆らうよりも、流れに乗って前に進んだ方がいい。

リピーターの方から相談を受けていると、「あ、流れがきたね」と感じるときが少なくありません。流れがそちらの方へそちらの方へと追いやっていく。ご本人もそれを感じるようで、不思議がるのですが、そう不思議がらなくても世の中ってそういう風に動くものと思って、そのままに動いた方がいいのです。

私は現在東京に住んでいますが、別に東京にあこがれたわけでも、何かしたかったわけでもありません。どうしても東京に来なければならないような流れがあったのです。私は故郷にずっと住んで、幼馴染や同級生やママ友と平穏に静かに暮らすつもりでした。多少の不満はあっても田舎のおばちゃんで満足していました。東京に来たきっかけは東京からの1本の電話でした。

しばらく連絡していなかった方に電話をして、ぐつぐつと愚痴をこぼしていたら、「だったら東京に来ればいいじゃない」と一言。

晴天の霹靂。

東京へ来ればいいじゃない。

自分では考えつかなかった解決策をいともあっさりと口にして彼女は続けました。「東京は働くところなんて、沢山あるわよ」

実際はそう簡単にはいかなかったのですが、その時の状況はそれがベストの道だと思えました。そして運命は東京へ行けとばかりに流れが速くなり、すべての条件がしだいに整えられてきました。

木の葉にのった一寸法師のように、流れにのって現在があります。まるで最初から道ができていたかのように。

流れは自分で作るのではなく、自分がこうなりたいと思ったら自然にできてきます。もしできなかったら、まだその時ではないか、気がついていないか、どちらかだと思います。

心からの感謝

こちらからの続きです。ほとんどの自己啓発本には「感謝をしよう」と書いてあります。「あなた生きていられるのはすべて何かからいただいたものなのだから、それに感謝しよう」というものです。

幸せになるための黄金律というものもあります。わかりやすく書いたものがあるのでリンクしますね。私がモラハラに気づいてから離婚し、このサイトを開き、沢山の方と交流をするようになってから、もう血液を全交換したように変わりました。

昔は科学ですべてを説明できると思っていましたし、成功しない人は努力しないからで、すべて効率第一主義でした。これが全部ひっくり返りました。ひっくり返してくれたのは、私の周りにいる方たちの沢山の愛でした。

2003年に私が「モラハラとは」に書きました。

”沢山の人が私の手を握り、肩を抱き、一緒に涙を流し、がんばってねと励ましてくれました。そしてある日、私の中に変化が起こりました。 「世の中のすべてのものを愛したい」「すべてのものを慈しみたい」「すべてのものに感謝したい」そんな感情が湧き上がったと同時に、明るい太陽がさんさんと降り注いできたのです。 「罪を憎んで人を憎まず」を私は今まで理解できませんでした。でも今はできます。前の私は「罪と犯した人」はイコールでしたが、 今は「罪と人」は別々です。夫に対しても憎しみはまったくありません。”

2003年の、なんてピュアな私(笑)

今はちょっと濁ってるな(笑)

2003年ははつらつとしていますね。たぶん血液も勢いよく流れて循環し、すごく健康だったと思う。血液がきれいに循環すると肌もつやつやだし、やる気十分だし、どんなにハードな仕事をして疲れても翌日はばしっと起きられる。

この中で「すべてのものに感謝したい」と書いています。私は自己啓発本の類は読みませんので、自然に沸き上がった感情です。沢山の方の善意に触れると、感謝の心というのは自然に沸き上がるものです。もしそうならなければ、この後の幸せはない。

「成功は俺様の実力(←モラ夫が言いそう)」という方向に行くと、幸せを掴めない生き方をしていると思います。

ただ、前に書いた

「私はちょっと気になることがあります」ですが、ネットを見渡すと、「感謝します」「感謝しかありません」というフレーズが沢山出回っていますが、この方たちは黄金律に「感謝しよう」と書いてあるからそう言っているのか、本当に自身の心からそう思っているのか、リターン狙いの「感謝しかありません」なのか、どっちなのだろうと思われるものがあります。

大抵自己啓発本を読んでいそうな方がそう言っているので、特にそう思うのかもしれません。

でも、感謝の心というのは、その気持ちになれば自然に湧いてくるもので、方程式ではありません。「感謝しかありません」という言葉が方程式がそうなっているからと口にしたのであれば、なんだか気持ちがよくない。何か違うなぁと思います。

感謝は感謝したいと思うようなことに出会うと自然に湧いてくるものです。特別大きなことでなくてもいい。私は探し物が見つかった時に「ああ、あった!神様ありがとう!!」ともう声に出していいます。

こんなものでいいんじゃないかな。感謝は次の感謝を連れてくるものだもの。

何があっても驚かない

今年はコロナに始まってコロナに終わりそうです。2009年の新型インフルエンザの時は、世の中大騒ぎをしていたけれど、結局そう大事にもならずに終わったので、今回もそれかと思っていました。が、そうではなかった。

だいたいマスコミが騒ぐときは肩透かしで終わることが多いので、自分の身に降りかかってくるとは全然思いませんでした。

でも、世の中は不思議な必然であふれている。

池江璃花子選手が白血病を発病したのはオリンピックの前年。このタイミングでの発病は悲劇としか言いようがない、と思ったら、コロナでオリンピックは延期。私は水泳競技のことはよくわかりませんが、東京オリンピックもアリなのでは?奇跡の璃花子さんならやっちゃうんじゃ?

バトミントンの桃田選手はリオオリンピックに不祥事で出場できませんでした。さぞかしクサっていると思っていたら、見事に復活。東京オリンピックへの出場が確実となっていたら、今年交通事故で目を負傷。これはまずいと思っていたら、オリンピックが延期。

こういうのはこのふたりだけではないんだろうなぁ。コロナはいろいろな人に最高の幸福と、最悪の不幸をばらまいています。

トランプ大統領がコロナに感染。「あんなの風邪だ」と言っていた人は、今病院のベッドで何を思うのでしょうか。簡単に済めば「ほぉら、言ったとおりだろう」とか言いそうで面白くないよなぁ。

テレビの「世にも奇妙な物語」秋編に出てきそうな結末があってもいいんじゃないかと思う秋の夜。

人生は運しだい

タイトルのとおりです(笑 。自分は運が悪いと思っている方にとっては絶望かもしれませんね。これは、私が長い間生きてきて、自分の人生を振り返った時、私の周りを見渡した時、沢山の方のお話を伺ってきたこと(モラハラに限りません)を総合すると、やっぱり「人生は運しだい」だと。

モラハラの相談を受けていると、「そんなのおかしいじゃないですか!」「法律ではそうなっていないじゃないですか!」と言われることが度々あります。法律を持ち出すなら、

”日本国憲法第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を受けない。”

もはや絵空事でしかない。世の中理不尽なことであふれているのです。調停も裁判も、「運ですね」としか言いようがありません。ご相談を受けると「運しかないので、祈って下さい」とお伝えします。

がっくりしている方にひとつだけ言うとしたら、「運しだい」と言うのはあなたにとっても相手にとっても同じだということです。そこは平等。ではどうやって運を引き寄せるかという話は、もう世の中に散々出回っています。いわゆる「運を引き寄せる術」の類です。もうもうもう山ほどある。よく数珠のような「ラッキーストーン」の腕輪をつけた方がいますが、さすがにそれははめようとは思いません。ただ、運の引き寄せについてはあるよなぁと思っています。

私は「後ろめたいことはしない」というのが第一です。たぶん今の時点で後ろめたいことはしていないので、お尻がむずむずしませんが、紙くずひとつ落としたままにしただけで、お尻がむずむずします。「あー、やっちゃいけないよなー」って。で、一生懸命紙くずを拾います。

ウソは基本つかないです。ただ、人間社会において、ウソが必要な場合もありますから、それはケースバイケース。

それから、人の喜んでくれるようなことをします。よく「エレベーターのボタンを押すだけでも親切になる」と言いますが、本当にそう。小さな善行はこちらの心もほっこり温かくなって、気持ちがいい。

ただこれ、以前も書きましたが、リターン狙いは本当にダメです。だいたいそういうのは心が卑しい人がやるもの。そんなことをするなら、何もしない方がまだまし。

まぁ、こういった「運を引き寄せる方法」は本当に沢山出回っていますが、私はちょっと気になることがあります。

すぐ死ぬんだから

こちらからの続きです

今BSNHKで「すぐ死ぬんだから」というドラマが放映されていますが、内館牧子さんの原作を読んだこともあり、毎週録画で見ています。

https://www.nhk.jp/p/ts/MKQG8VMRZ3/

この原作を読んだとき、ドキッとしたのが「老人たちが身に着けるのは流行遅れか安い服」「リュクを背負って帽子をかぶり、ウォーキングシューズを履いている」

う。。私、そのままっす。日焼けしたくないから帽子必須。荷物は二つ持つとひとつはどこかに忘れるか落とすかするので、ひとつにしたい。手に持つと重いので自然とリュックになりました。私はなりませんが、50肩の方たちもそうみたいですよ。足元はNBのスニーカーです。これが一番歩きやすい。夏はアシックスのサンダルを履いてます。ウォーキングシューズ並みに歩きやすいので。足元は歩きやすいのが一番です。

私はファッションセンスはあると思う。ただ身に着ける物にお金を使おうと思わないの。お金は有限だから、必要なものにはドンと使うけど、必要ない物には使わない。ファッションは優先順位がずっと下なのです。

いつの頃か忘れましたが、とても体が疲れる日があり、どうしてなのかと考えてみたら、デニムを穿いた日(ジーンズと言ってはいけないらしい)がそうであることに気付き、デニムを止めました。重いのと、体を締め付けるのが良くないらしい。老いは知らず知らずのうちにしっかりと体に入ってきています。

ともあれ、内館さん的老人像としては、私はしっかり老人ですっ。いいですよ、もう老人で。私は年に抗わないことにしたので。

後残り少ない年月を、静かに穏やかに生きていければいいなぁと思っています。何しろ人生のほとんどが苦難や波乱万丈だったりしたので、もう老後くらいおとなしくしていたい。

老人たちは「すぐ死ぬんだから」と言いながらテレビCMに流れてくる健康食品を「今から30分以内なら半額」の声にフリーダイヤルのコールセンターへ電話し、健康体操を欠かさず、テレビの「血圧を下げる食品特集」に食いつく。

私の母は腰も曲がらず、頭もはっきりとし、とても元気です。

ただ、母は生きていることが幸せそうではない。口から出るのは愚痴と不満。どうも不幸そうです。生きているのが辛いのであれば、早めに父のところへ行った方が本人も楽なのではと思います。とは言え、これは本人の意思ではどうにもできないこと。

「すぐ死ぬんだから」「もう長くないんだから」と言いながら我が母、そろそろ90歳を超えようとしています。私は母が長く生きていることに特段何も思っていません。ただ、幸せな気持ちで生きていて欲しい。彼女の幸せとは家族がみんな彼女の生活を心配し、彼女に感謝し、彼女を第一に考え、週末にはこぞって施設にやってきて褒め称えることです。何より私が母と一緒に暮らすことです。それができないのは、それは彼女がそういう生き方をしてこなかったからです。ツケは最後にやってくる。

去年の参議院選で「安楽死制度を考える会」という政党があるのを見た時、心が動きました。そう思ったのは私だけではなかったようで、同僚が「私、入れたわ」と言っていました。死ぬ時を選べたらいいのになぁ。死ぬ前に全部整理して、心おきなく死ねたらいいなぁ。

次回の選挙にこの党が出たら、考えてもいいなぁ。

長生きはリスク

月曜は敬老の日でしたが、なんだか報道が「祝う」よりも「憂う」雰囲気の方が強くなっているような気がします。団塊の世代が全員70歳を超えたこともあるでしょう。本当に団塊の世代の方々は、自分で選んだわけでもないのに、いつも時代のトラブルの元になっているような気がします。

知り合いが小学校へ入学する時は校舎が無くて、隣の小学校の古い校舎を使っていたとか、教室に入りきれずにミチミチだったとか、とにかくいつも競争だったとか、団塊ジュニアの子どもたちは大学入試の競争率がものすごく上がってしまい、苦労したとか。

そして「長寿おめでとう」よりも「えー、まだ生きるの。。」というため息のようなものが聞こえる原因は当然「年金と医療費」が膨大になっているから。

年を取れば体がさび付いて、あちこち悪くなるのは当たり前ですから、健康保険組合からの支払いが多くなるのは当然です。コロナが始まって「感染を懸念した人たちが病院に行かなくなったから病院経営が厳しくなった」という報道もありましたが、コロナが怖いから病院に行かない人たちは元々特に急いでいない方たちなのでは?もしくは行く必要のない方たちなのでは?

血圧の薬など、いつも飲んでいる薬だったら、電話で処方箋を出してもらうこともできるようなので、それができれば仕事を休み、痛む体で病院に行く人たちが短い待ち時間で診察を受けることができます。コロナのための一時的な処置でなく、これからもそうすればいいのに。でもそうしたら、お年寄りの時間つぶしや生きがいが無くなってしまうか。

ポテトサラダじじぃがそうでしたが、キレる老人が増えています。何しろ団塊の世代の人数が多いので、それに比例して困った老人が増えるのは当然のこと。社会がなんたらとか、その世代がかんたらよりも、絶対数が多いんだから当然なんだってば。

2025問題とは団塊の世代の全員が後期高齢者になるということ。この世代、小学校に入学するのも大変だったけど、老人施設に入所するのも一苦労の世代になりそうです。

すべて戦争が作った現象なのだけど。そのツケが75年後に来るとはね。

守ってあげたい

時々「夫から守ってもらえなかった」という方がいます。「結婚とは男性が女性を守る」ことというセオリーがあるのかもしれません。それに異を唱える方もそれほどいないでしょうし、活動写真では縄でグルグル巻きをされたメリーさんが線路に置かれて、足をバタバタさせて助けを求める活動写真の時代から(いつだろう?)、女性は守られるべき存在と言う「常識」が世の中に浸透していたと思います。

この常識を思いっきり覆したのは「エイリアン2」ではないでしょうか。私の中ではそうです。

https://cinemore.jp/jp/erudition/385/article_386_p1.html

これをリンクして気づきました。あらら、これも「ターミーネーター」と同じ監督のジェームス・キャメロンだったんだわ!つまり彼は常に戦う女性を主人公にしていたんだわ。ほほー。

この映画、本来なら「助けてー!」と叫ぶのがリプリーで、勇敢に救うのがヒックスのはずなのに、ヒックスは本当にもう、判断力はないし、足でまといでしかない!さっさと逃げろというところで転んだり、怪我したりしてイライラさせられどおしです。そののろま加減にお前なんか死んでしまえ!と叫びたくなるほど。

足手まといのこの野郎なヒックスをこれでもかと助けるのがリプリーで、いやー、かっこよかった。「ターミネーター2」のサラコナーもめちゃカッコよかったと私の深い記憶に残っているということは、私とキャメロン監督の信号が一致しているということかしら。

そういえばの話になりますが、私は記憶の中で「誰かに守って欲しい」という思いが無かったような気がします。子どもを守りたいとか、仕事を守りたいとか、そういったことはあるけれど、誰かに守られたいと思ったことがない。守ってくれる人がいたら便利だろうなとは思うけど。

親は守ってくれるどころか常に「育ててやった恩を返せ」というばかりだし、子どもの頃助けて欲しくても、そう希望通りのことはしてくれないし、してくれても怒鳴り声と一緒だし、いつも見返りを要求するし、いつまでもそのことを持ち出して恩に着せるし、それが面倒だからもう何かしてもらおうという気すら無くなっていました。

ただ、友人から助けてもらうことは多々ありました。本当に沢山ありました。「これ、頼めるかな」とお願いすれば「いいよー」とふたつ返事で引き受けてくれる。でもこれは「守って欲しい」とは別のものですよね。

子どもは守ってあげたいと思いはとても強くあります。命に代えてでも守りたいと思います。でも、誰かに守られたいとは思わない。これは守られたという経験がないからなのかしらん。たぶんそんなに信頼して頼り切った人が急にいなくなったらとても困って落ち込んでしまうという、防御のためかもしれません。だから最初から守って欲しいという気持ちを持たない。

そういう気持を持たなければ「夫が守ってくれない」と落ち込むこともない。でもそう言うと「それはとても悲しいこと」とか言う人が絶対にいるんですよ。依存する先がないのは悲しい事ではなく、人間ってそもそもそういうもんだと思うのです。依存する相手がいたら、それはそれでかまわないし、いなくても特に不都合なこともない。人から「悲しい」だの「気の毒」だの「寂しい」だのと言われる筋合いはない。なぜ自分の価値観に人を引っ張り込むのだ。

依存する人がいなくても、特に困りませんよ。いつ居なくなるか、気が変わるかわからない依存先がひとりいるよりも、助けてくれる人が50人いた方がいいと思うのだ、私は。

未来を読む

今年のお正月が終わった頃、友人から聞いた話です。

職場で数は少ないものの、パートの方の雇用が打ち切られることになった。理由は今までハンコを使ってしていた仕事がPCを使うことになり、PCが使えない人たちは再契約ができないことになったとのことでした。

今時ハンコを使ってする仕事があったというのも驚きでしたが、雇用打ち切りの人たちは、勝手な理由をつけたリストラだと言って、組合にかけこんだとのこと。でも、それを教えてくれた友人も私も、「同情できないよね」

世の中をぐるりと見渡せば、このハンコを使ってする仕事は遠からぬ将来無くなるのはわかっていなければならなかったはず。それなのにPCスキルを身につける努力もせず、明日は今日と同じ、明後日も今日と同じ、10年後も今日と同じと思っている方がおかしい。こういうのを楽天主義と言うのだそうです。

楽観主義と楽天主義の違い

http://bcaweb.bai.ne.jp/~aik28501/custom1362.html

私はめちゃめちゃポジティブ思考ですが、未来は絶対に明るいとも思っていません。明るくするには明かりを作る、もしくは借りる算段をするか、明るい所に移動するか、ともかく準備のシュミレーションはします。そうしないと不安で仕方がない。

未来なんて何が起こるかわからない、不安がったって無意味という方は楽天主義なのか、もしくはちゃんと準備ができている楽観主義なのかどっちなんだろう。

母の誤算

昨年我が母は老人施設に入りました。実家のあるところではなく首都圏の施設ですから、会いに行こうと思えばそれほどがんばらなくても行けます。

最初に面会に行った時に肩を落として悲しそうに母が言いました。「ここの人たちがみんな言うんだよ。ここは家族から捨てられた人たちが来るところだって」

はい、そうですけど、それが何か。

「捨てられた」は人聞きが悪いから言葉を変えますが、ここは「子どもたちに迷惑をかけるから、ここでひとりで暮らす」または

「嫁姑とか、家族のごたごたは真っ平。ひとりで悠々と暮らしたい」または

「親と一緒に暮らしたいけれど、住居環境や家庭の環境が老人と一緒に住むようにはできていないので、ここで暮らしてね」または

「あなたと暮らすとこちらがストレスフルになるから無理。ここでひとりで自由に暮らしてね」

そういった理由で老人施設に入居した、または入居させられたのです。我が家の場合は一番最後の理由になります。

母は施設に来る前、よく「こんなことになるとは思わなかった」と言って忌々しそうにため息をついていました。母の母、私にとって祖母はお小遣いを沢山くれ、美味しいものを沢山食べさせてくれる、とてもいいおばあちゃんでしたが、嫁いできた叔母は大変苦労したそうです。それは従妹から聞きました。

死ぬまで女帝として家に君臨し、嫁をあごで使っていた祖母が亡くなった時、従妹は「死んだときには遠くにいたけど、死に目に会いたいとも思わなかった。泣くこともなかったし、葬式には一応出てやったという気持ち」だったそうです。

女帝として一家を仕切り、嫁を労働力として使っていた祖母を見て、自分もそうなると思っていた単純な母は、よもや子どもたちがそっぽを向き、施設に入ることになるとは夢にも思っていなかったでしょう。子どもが自分を捨てる(捨ててませんよ!)なんて、太陽が西から昇るようなことと同様に、あり得ないと思っていたでしょう。

今、「常識」と思っていることが、20年後、30年後も常識と思っていたら、思わぬことになる可能性が高いです。20年前、30年前を考えてみたらわかるはず。それを「こんなことになるとは思わなかった」と畳をかきむしるよりも、世の中に適応し、柔軟な生き方を選んだ方が後から後悔することは少ないだろうなと思います。

電話相談の内容をちょっと変更

電話相談期間が終了しました。今回のご相談はモラハラ以外のものが結構ありまして、今まで夫婦関係のモラハラのみに特化して行ってきましたが、これからは枠を取り払い「なんでも相談」にしようかなと思っています。今までなぜそれをしてこなかったかと言うと、ご自分で答えを見つけるお手伝いをする、いわゆるカウンセリングの場合は、たいていとても時間がかかるからです。1回で終わることはほとんどありません。

何度もリピートしていただく必要があるのですが、ここの相談自体、年3~4回ほど、期間を設けて行うものなので、継続の方には使い勝手が悪い状態でした。それならば、私ではなく、他の継続可能なカウンセリング機関に行っていただいた方がよいと思ったので、そうしてきました。

ただ、いろいろな方のお話を伺うと、モラハラ家庭からの避難はソーシャルワークが主ですが、こころのケアや、自分を見つめなおすお手伝いもそれと同じように重要だと思うようになりました。実際私は男女参画センターの相談員を10年勤めましたので、この「自分を見つめなおす方のお手伝い」は沢山やってきました。それならば、ご要望があればやらせていただいてもいいなと思うようになりました。

同じ空間を共有しないでお話を伺いますので限度はありますが、相談に来られる方が「モラハラを知っている人と話をしたい」と仰ることが多いので、私でよければお受けいたします。

次回の相談は11月頃に行う予定ですので、もしよろしければその頃にご連絡下さい。