ひまわり畑とウクライナ

ウクライナは行きたい場所のひとつでした。行きたいと思ったのはずっとずっと昔。イタリア映画「ひまわり」という映画を見てからです。第二次世界大戦中、新婚カップルのマルチェロ・マストロヤンニが招集され、妻のソフィア・ローレンと離ればなれになってしまいます。戦争が終わっても帰ってこない夫を探しにソ連に行くソフィアでしたが、そこにいたのはその地で新しい家族を作っていた夫の姿でした。

というメロドラマの基本のような映画でした。当時中学生だった私がどこまでこのふたりの心情を理解できていたかは甚だ疑問なのですが、ヘンリー・マンシーニの音楽がいかにも物悲しく、人の心を揺さぶりました。その曲は今でもインストルメンタルの定番曲で、誰もが一度は聞いたことがあるはずです。

ソフィアがソ連で夫を探していくシーンに出たのがひまわり畑でした。今は日本でもひまわり畑は観光用であちこちにありますが、当時はとても珍しい風景でした。地平線の向こうまで続く黄色いひまわり畑。カメラはずっと引きながら、その広大を映していました。

私は当時住んでいた社宅の小さな庭にひまわりの種を植え、「大きくなーれ」と世話をしたら、大木のようになって周りの草木の養分まで吸い取ってしまい、大事な植木を枯らしたと、父から大目玉を食いました。

その撮影地はウクライナ。「ウクライナのひまわり畑を見に行きたい!」とずっと思っていました。

もうひとつは1994年リレハンメルオリンピックフィギュアスケートで優勝したオクサナ・バイウル。独立したばかりのウクライナ代表で出場。当時16歳とはいえ、今の16歳がぴょんぴょんとジャンプを飛ぶのと違い、まるで生のバレエを見ているような優雅な演技で、世界中が魅了されました。エキシビションで同じウクライナのヴィクトール・ペトレンコとペアで演技をしたのも記憶にあります、とこの間友人たちとの会話で言ったら、私もーーーーー!!と友人が共鳴。たぶんこの時、多くの人たちに脳にウクライナの国名が刻まれたことと思います。

さらに私にとっての記憶はリオオリンピック男子体操で、最後の最後まで内村航平選手と個人総合を争ったのがウクライナのオレグ・ベルニャエフ選手。記者会見で「内村選手は審判の同情を買ったのでは?」の質問に「それは無駄な質問だ」と怒りを露わにしたというニュースがありました。「審判の判定に疑問を挟む余地はない」「伝説の男と戦えたなんて最高にクールだ」とも。

東京に来てバレエを見に行くことが時々ありますが、キエフバレエ団の「くるみ割り人形」を見たときは、背景がちょっと寂しくて「お金がないのかな」と思ったりしていました。

「ひまわり」からずっと心にあったウクライナ。とても嬉しいニュースにが出るたびに、「いつか行ってみたい」と思っていました。

ウクライナに行くためのリサーチもしていて、大変物価が安く、旅行者にとって過ごしやすい場所だというのはわかっていました。ただ、物価が安いということは、収入が低いということ。東欧はすべからくみな同じです。

「ひまわり」はヴィットリオ・デ・シーカ監督が、反戦映画として作った作品です。そのロケ地となったウクライナが今戦火にあります。私の心の底にずっとあったウクライナがこのような状態になっているのを見るのは悲しく、プーチンには怒りがあります。

中学生の時、社会科の先生が「攻めるんだ、攻めるんだと言って始める戦争はない。戦争はいつも守るんだ守るんだと言って始まる」と言っていました。私が子どもの頃はまだ戦争の傷跡が色濃く残っており、先生方も戦争があったことを知っている方が多くいました。

テレビの実況でリアルタイムで見る戦火。何回この映像を見なければならないのだろうと、暗澹たる気持ちになります。