目の前で見る戦争

両親からは戦争のことは本当に耳にタコができるほど聞きました。ただ、戦闘機からの爆撃や、極度の食糧難を経験している母と、農家だったこともあり、あまり食べ物に不自由したことのない父では語る内容も違います。

ウクライナの戦争はこれまでと違い、市民が自ら撮影したものをネットに投稿するといった、情報を拡散させることが武器をひとつになっています。

考えてみたら、自分の周辺で起きていることをwebで公開することをしたのがモラハラが大きく広がっていった理由のひとつだったと思います。今までは親や友だちに愚痴っては「あなたにも悪いところがあるのでは」「どこも同じ」と言われて終わっていたのが、自分に起こっていることをネットのあちこちに披露したら「うちも」「うちも」という大きな賛同の波がこのモラハラの広がりに繋がったと私は思っています。

「モラハラ被害者同盟」が始まったばかりの頃、掲示板に投稿されたひとつに私の目が釘付けになりました。

「また始まった。今度は何なんだ」という投稿です。

ああ、私と同じだ。夫が急に口をきかず、不機嫌になった時にいつも思うことでした。

「今度は何なんだ」

不機嫌になった理由がわからない。その前に何があったのか、思い返してもわからない。「今度は」というからには何度も繰り返されていることを意味しています。私と同じ思いをしている人が同じ日本にいたんだ。これは大きな発見でした。

夫と同じ人がこの日本にいるんだ。それも結構たくさん。

同じようにウクライナの戦争は、市民ひとりひとりが自分の目の前で起っている出来事をネットに送っていることが今までの戦争と違っています。

オリパラの時にしつこく言われたのが「SNSに投稿しないでください」でした。記念写真の撮り方という指導もありました。写真は映りこんだ人がネットに公開されたくない場合もありますので当然かと思いますが、結構いろいろな(オリパラ委員会にとっては困った)情報がTwitterに投稿され、(私のとっては)とても役にたったこともありました。

その投稿を見た人と見なかった人の間には「すごく得をした人」人と「損をした人」に分かれました。後から「知らなかった」「見た人だけが得をするなんて不公平だ」という声がネットに投稿されました。私は得をした方でした。

情報はとにかく取る。片側だけでなくあらゆる方向から取る。それを自分なりに精査して動く。動かなければ取らないのと同じ。

太平洋戦争の時、市民が生きるためには口コミという方法で情報を取り、人知恵を駆使して暮らしていました。

村上春樹ー「ハナレイ・ベイ」

村上春樹は読書の好きな方なら当然のように読んでいるでしょうが、私は小説よりもノンフィクションなどのジャンルが好きなもので、手にとる機会がありませんでした。超ベストセラー「ノルウェイの森」もしかり。「1Q84」はDVを扱った小説だと聞き、読んでみようかと図書館に行くと、1巻が薄汚れていているのに比べ、3巻はそれほどでもない。司書をしていた同僚に聞いたら「みんな途中で挫折するから、3巻までたどりつかないのよ」と。

そうか、みんな挫折するのか。だったら当然私も挫折するであろうといまだに手にとっていません。時間ができたら読もうと思っている本のリストに入れておく、と。

長編は無理でも短編ならと図書館で手にとったのが「東京奇譚集」でした。「ハナレイ・ベイ」はその中のひとつです。他のものはみんな忘れてしまったのですが、これだけは強烈な印象がありました。

と思ったら、世の人みんながそう思ったのか、映画化されていました。

https://sheage.jp/article/41007

このお話に惹かれたのは、主人公のシングルマザー、サチは自分の子どもが嫌いだったということ。自分で育てたわけだから、いくばくかは自分にも責任があるとはいえ、息子の生き方、人格がとても好きにはなれないこと。

その息子がハワイの「ハナレイ・ベイ」でサメに襲われ、片足を食いちぎられて亡くなってしまいます。そんな息子の幽霊が出ると聞き、彼女は命日の度にハナレイ・ベイにやってくるのですが、自分には見えません。なぜ他の人には見えるのに、自分には見えないのか。

なぜ、嫌いな息子の亡霊が見たいのか。

じれったいほどに死んだ息子に会いたい母親。大嫌いだったのに会いたい母親。

私も母親のひとりですから、この気持ちがすごくよくわかって、忘れられないお話になりました。短編ですのですぐに読めます。よろしければどうぞ。