姓のいっこもどりルールに注意

以前勤めていた時に、ある方が離婚したとの噂が流れました。その方は2回結婚しているのですが、離婚した後の姓が1回目の結婚相手の姓だったので、「元のダンナと復縁したのか?!」という説があちこちで囁かれました。

ところがその様子はなく、結局たどり着いたのは

「相手の姓を名乗っていた場合、離婚するとひとつ前の姓にしか戻れない」といういっこ前ルールがあるので、「再婚相手の姓を名乗りたくなかったら、前の夫の姓にするしかなかった」というオチでした。二個前の実家の姓には戻れないのです。

一番目も二番目の夫も嫌になったから離婚したわけで、どちらの姓を選ぶかと言われて、まだマシな方を選んだということでしょう。

またある方が離婚後仕事の関係もあり、元の姓に戻らず元夫の姓を使っていました。ところが再婚することになり、再婚予定の方から「なぜ前の夫の姓を名乗り続けていたのか。まだ前の夫のことが忘れられないのではないか」と問い詰められたという話を伺いました。

離婚した時に結婚前の姓に戻るか夫の姓のまま別戸籍をつくるかはその時の状況によりますが、再婚の可能性があるならば、実家の姓にしておいた方が良いかもしれません。

こういう面倒なことを無くすためも、夫婦別姓を早くやって欲しい。

内田也哉子とみっつの種

先日たまたまついていたテレビに樹木希林が映っていました。日テレで放送された「ザ!世界仰天ニュース 秘蔵映像!内田裕也&樹木希林!娘が語った超キテレツ夫婦の真実」です。

https://tver.jp/episodes/epe0vuznjo

↑番組VTR 消される前にお早めに

私は途中から見たので、たぶん内田裕也と樹木希林の変わった夫婦生活をドキュメント化して、おもしろおかしく放送したのだと思っていましたが、番組の最後の方で、娘の也哉子さんが半年ずれて亡くなったふたりの葬式で読んだ謝辞の映像が流れました。

私は内田也哉子とは樹木希林の娘としか知らず、結局何をしている人なのかも知らなかったのですが、その謝辞の言葉の選択に度肝を抜かれました。言葉を操る天才としか思えない、まるで広い宇宙からひとつずつ集めてきたかのような言葉選びのセンス、絶対に他の人には真似のできない熟成された、それでいて斬新な、流れるような言葉運び。

いったいこの人は何なんだと、必死でググりました。肩書はエッセイストとあったので、どうりで言葉選びが洗練されているはずだと思いました。

YouTubeにはインタビュー映像などもあって、それを見ると樹木希林・内田裕也夫妻の子どもで生まれたばかりにかなり変わった子ども時代を過ごされたようです。

彼女にとって最大の幸運はシブがき隊のもっくんと結婚したことでしょう。もっくんは内田家の婿になり、内田雅弘になっています。15歳だった也哉子さんを「その存在感に惹かれた」というもっくんが樹木希林に請われて内田家の婿養子になったのも、もっくんの人間性と度量の大きさならではでしょう。

樹木希林・内田裕也という類まれな才能からたったひとりだけ生まれた也哉子さんですが、もっくんとの間に3人の子どもをもうけます。一粒だった種が、みっつの種を世に送り出しました。

私が度肝を抜かれた謝辞の中で也哉子さんはこう語っています。

”まるで蜃気楼のように、でも確かに存在した2人。私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく…。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなか面白いものです!”

遺伝子は次の時代へと確かに引き継がれ、また次の世代への架け橋になる。

肉体が滅びても、DNAは受け継がれる。みっつの種を撒いた也哉子さんは、やっぱり素晴らしい。そして、その也哉子さんを世に送り出した内田夫婦もまた、偉大でした。

タケノコご飯と今どきの学校

今日ジムに行ったら若いお母さんが「今日給食は筍ごはんなんだけど、ウチの子は筍を食べると舌がしびれるので、ご飯を持たせないといけないからわさわさしちゃった」と言っていました。

旬の筍を使った年に1度のタケノコご飯なのに、「舌がしびれるから嫌」と言って白いご飯を持参するのだそうです。

確かにタケノコを沢山食べると舌がピリピリする時がありますが、今ピリピリの理由を調べたらあく抜きが足りないとか、アレルギーのせいもあるそうです。

でも、学校給食のご飯に入るタケノコの量はたかが知れていると思うのですが、もしかしたらその子は家でタケノコを食べた時にあく抜きが足りないタケノコを食べて、それからタケノコ=舌がしびれるになったのかもしれません。

それにしても食べられない物が給食に出る日は自宅から別のものを持って行っても良いというのは、学校もずいぶん融通がきくようになったもんだなぁと思います。昔は全部食べるまで教師は許してくれず、お昼休みになっても肉が食べられないユミ子ちゃんは涙を流しながらアルミ椀と向かいあっていたものでした。

今は無理強いはさせず、食べられなかったら残してもいいし、別のものを家から持参してもよいという、なかなかゆとりな教育です。

聞くところによると、食べ物で亡くなる場合があるので、学校も敏感になっているのだとか。

昔のように何でも強制しないというのはいいのですが、それていいのかなぁという気持ちになります。別にタケノコを食べなくても死ぬわけでなし、どうということもないのですが、「嫌ならしなくてもいい」が給食だけなのか、他のこともそうなのかが気になります。

ダイエットが必要なくなるお年頃

「70歳を過ぎたらなんでも食べて、とにかく体重を落とさないようにしよう」というネット情報を見て、はたと気づくとそれは私ではないかと思ったりしています。

60歳を過ぎて食が細くなり、とにかく量が食べられなくなりました。「小鳥がついばむくらい」というのは少ししか食べませんよという時に使われる言葉ですが、本当にそのとおりで、少し食べただけですぐにお腹がいっぱいになってしまう。へたをすると飴玉1個でお腹がふくれる。

3時のおやつに食べたクッキー1片で夕食時間になってもお腹が空かないということになるので、おやつも食べないようにしています。とにかく3食をしっかりととらないと体が作られません。

食べる量が少ないので、とにかくタンパク質中心に野菜、乳製品、ミネラルを含んだものを取るようにこころがけています。プロテインも使います。

とはいえ、ちゃんとお菓子も食べますからそこまで厳重にしているわけでもありません。

若かったあの頃、必死でダイエットをして、毎日グラム単位で体重を計ったりしたものですが今はそれは必要なく、食べたいだけ食べても体重は落ちたままを継続しています。

ただ、ジムで体を作っているので筋肉量はしっかりあって「筋肉系スリム」という体形です。

そうか。60歳を過ぎると食べる量が少なくなるから体重は落ちていくんですね。必死でダイエットをしなくても、年をとるとなんかこうなるみたいですので、あんまり必死にダイエットをしなくてもいいかもしれないですよ。

ただ、体幹を鍛えないと腰の曲がったおばあさんになるし、転びやすくなってけがをしたりするので、筋肉を衰えさせない運動はしておきましょうね。

私は結構ハードにやっております。

あの退職の日のこと

ショコラさんのブログでショコラさんが退職されたとの記事に触発され、私の退職日について何か書いていたかなーと過去を探しましたが何も書いていなかったので、ちょっと書いてみます。

ショコラさんのブログ↓

https://lee3900777.muragon.com/

私が退職をしたのは「すぐに終わるだろう」と思っていたコロナ禍がちょっとまずいことになったぞと変化し始めた頃です。

クルーズ船が乗客を下ろし、市中からマスクが消え、学校が卒業式ができなくなってしまい、この先、オリンピックはどうなるのだとざわめき立っていた春、私も長い間勤めていた職場を去りました。

上司から残って欲しいとは言われましたが、私は別のステージに移る決心をしました。2020年はオリンピックボランティアを始め、いろいろなイベントを行う予定でしたが、すべてコロナで無くなってしまったので残る道もあったのですが、もう9時から5時までの仕事はかなり体に負担がかかっていました。

ダラダラと時を過ごすよりも、新しい何かを見つけに行こうと思えるのは、もう扶養しなければならない子どももいなくなり、自分の生活だけを考えればよいという身軽な状態だったことが大きいです。

幸いずっとフルタイムで働いてきましたので、ぜいたくをしなければ暮らせるだけの年金はもらえることになっています。後は年金を全額もらえるまで何とかしのげればいい。

職場がどうのこうのよりも、コロナが深刻になっていく方が圧迫感のある3月の末。有休を半日残して使い終えたのは虫の知らせだったか。

最後の日はお世話になった方たちにご挨拶をするものですが、私の職場は自転車で行かなければならない離れ部署が沢山あり、一緒に過ごした方たちがそちらへも異動しているので、ちょっと時間がかかる。

「ご挨拶は私用だから有休をとるように」と言われた時は耳を疑いました。10年間も勤めてきて、その間にお世話になった方はたくさんいるし、大体最後の日は挨拶まわりで終わるものだと思っていたら、「それは私用だと」いう。

「えー、私が前に辞めたときはそんなこと言われなかったわよー」と同僚に言われ、私も挨拶まわりをするのに有休を使うなんて聞いたこともない。

捨てるつもりだった半日の有休をここで使いました。ええ、堂々と好きなようにあいさつまわりをしました。

有給なんだからと途中でパン屋に寄ってテラスでパンも食べました。有休だからこそ味わえる、退職のあいさつまわりの途中でイートインをするというなかなかない体験。このパン屋です。

コロナ禍のため送別会も無し。よくあるあのでっかい花束は飾るところがないので、こちらからお断りしました。断ってはみたものの、なにかおしるし的なものがあってもいいなと思ったので、近所の花屋で五百円のブーケを自分で買いました。

親しくしていただいた方たちから両手に持ちきれないほどの記念品をいただき、私も心ばかりのハンドタオルをみんなに配り、最後の日は終わりました。

とにかくコロナで世の中が毎日右往左往している時期に、それに紛れてささっと辞めたことがかえってよかったかなと今は思います。

「明日も明後日もみんないつもと同じように働くのねー」とつぶやきながら、私ひとりだけはここを去るのだという、この場所にさよならを言いながら、最初にここに来た時の満開の桜を思い出したりしていました。

スポーツに対する考え方は変わるか

今回のWBC野球は本当に見ごたえのあって、はらはら連続な試合に魅了されました。サッカーは試合中トイレタイムはないけれど、野球はトイレタイムもおやつタイムもあるので、とっても助かります。

今回大谷選手が大注目ですが、出身が岩手の片田舎というのが地方出身の私としては嬉しいことでした。サッカーは三苫選手を始め、主要選手がプロの英才チームに小さな頃から所属していたという背景があり、やっぱりそういうものなのかと一抹の寂しさがありました。

地方で生まれた者は、限られた環境と情報の中で、一生懸命頑張っても井戸の中の蛙だったりするものですが、今では指導者と環境があれば世界を目指すことができるようにもなっています。

小さな頃から川に石を投げていたから云々という話もありますが、やはりスポーツ科学は重要で、根性や精神力だけでは効率が悪かったりケガをしたりしますから、体に合わせたメニューが必要なんだろうなと思います。

部活で野球やサッカーをすると言えば、自由時間なし、長期休みは明け方から夜まで練習、親は弁当作りや場所取り(グランド抑える)、洗濯、送迎、遠征費やユニフォームとお金もかかり、親も覚悟がなければこういったメジャースポーツをさせられなかったものです。

#野球は特に丸刈り必須だったから、それが嫌さに野球部に入らなかった男子も多かったですね。丸刈りは甲子園大会を見ると今もでしょう

今回、試合後選手のみなさんが「楽しかった」とコメントしていて、あまり涙もなかったのが印象的でした。

スポーツは楽しいからする。もちろん練習は厳しいし、体づくりの筋トレは地味できついのですが、根性、精神力ではない、休養日も取り入れ、楽しい練習メニューにしたら、スポ根で離れて行った子どもたちも興味を持ってくれるのではないかと思ったりします。

背番号16に昭和の人間は思いを馳せる

今日のWBC準決勝はすごかったですねーーー。ラッキー祝日で、いつものように友人たちとLINEでの同時観戦となりました。

今まで危なげなく勝ってきましたので、どこまでもこの好調が続くと思いきや、追いつけば突き放されるで、まったく気の抜けないゲームになりました。

LINEの画面にはお祈りや汗のスタンプが飛び交い、「ドキドキする~~~」「心臓に悪い~~」の文字が飛び交います。たぶんTwitterとかもそうだったんだろうな。

家でひとりで観戦しても、なんとなく友だちと一緒に見ている感覚は未来的。コロナで現実になりました。

さて、今回の大目玉は大谷ですが、彼が背負っている背番号16を見ると、昭和生まれの私が一瞬で思い出すのは

星飛雄馬。

もう「ひゆうま」とキーボードに打ってもまったく変換されない古代感。

伝説の野球漫画「巨人の星」で主人公の飛雄馬は、読売巨人軍元監督の川上哲治が背負っていた背番号で、巨人軍の永久欠番である16を川上監督から授けられます。

あの頃、この漫画(アニメ)を見ていた人たちは背番号16と聞けば即座に星飛雄馬を思い出すと思うんですけどね。

WBCでこの16番が躍動するのを見るたびに、土曜の夜7時に放映されていた、まったく立体感のない絵を思い出します。

そして飛雄馬の父が腕を強化するために飛雄馬につけさせていたのが「大リーグボール養成ギプス」(当時はギブスと発音していた記憶が)。

今なら児童虐待ですが、たぶん日本のどこかで同じようなものを子どもにつけさせていた親はいると思う。身近にこのアニメに感化された父親が、夜になると嫌がる子どもを外に連れ出して、一緒にうさぎ跳びをしていたのがいましたから(子どもは高校生で家出。その後行方知れず)

あの頃「大リーグ」なんてどこの星かと思っていましたが、今や日本のプロ野球は大リーグに行くまでの腰掛けみたいになって、張本さんを怒らせています。どのスポーツもそうですが、目標は日本一ではなく世界一になっていて、あの頃と隔世の感があります。

「巨人の星」で大リーグからやってきた「オズマ」は、なぜか「ユー」とか「ミー」という単語は英語なのに、難しい会話では日本語をしゃべるのは突っ込んではいけない謎でした。

大谷選手はもはや世界の大スター。羽生弓弦さんもそうですが、大スターになっても決して驕らず、謙虚に徹する姿は清々しくて見ていてとても気持ちがいい。

さて、明日は私もお休みなので、しっかり決勝戦を見届けたいと思います。友人は仕事をしながらアマゾンプライムで見ると言っていますが、サッカーの時に本田の解説が面白いのでabemaにつないだら、回線が込み合って全く繋がりませんでした。たぶん明日も同じ状況なのではないかしらん。

それにしても侍ジャパン。みんな少年が大人になって野球を楽しんでいるように見えて、見ているこちらも草野球応援のように歓声をあげながら応援したくなります。

あの時に言わなくて未だに後悔していること

私の家の近くには割と大きな保育園があります。今でもその保育園の前を通ると「あの時になぜ言わなかったんだろう」と後悔することがあります。

それはお迎えの保護者がパラパラとやってくる夕方過ぎのこと。70代後半と思われる、絵に描いたような白髪頭のおばあさんが声高にふたりのお母さんに向かって怒鳴りつけていました。

その三人のそばを通り過ぎる時に聞こえてきたのは

「こんなところに子どもを預けて!自分の子どもくらい自分で育てなさい!」という声でした。

ふたりのお母さんは困ったように下を向いていました。私はそのおばあさんに言ってやろうかどうしようか迷って、言うタイミングを失って通り過ぎてしまったことを今も後悔しています。

「このお母さんたちが働いているからアンタは年金をもらえてるんですっ!そんなことを言うんだったら、今すぐ役所に行って自分は年金はいらないからと言って来い!」

我が母も「子ども子どもって子どもにばっかりお金をばらまいて、あたしらの時はそんなお金がなくてもちゃんと自分で子どもを育てたもんだ」と言ってる。

母よ。あなたが子育てをしたのは60年以上前のこと。時代は大きく変わる。60年前は便利な家電も車もなかったでしょ。高校を卒業したら働くのが当たりまえ、中卒で働いていた人もいたでしょ。

それと現代を同等に置くのがおかしい。昔はお父さんひとりの稼ぎで一家が食べられたけれど、今は低賃金の夫婦がふたりで働いてなんとかなる時代。ひとりが倒れたらアウトだ。

昔は近所の婆ちゃんが子どもの面倒をみてくれたかもしれないけれど、今はそんなことはできない。保育園に6時過ぎまでしっかりと預けて働かないといけないんです。

「子どもを預けて楽をしている」わけではなく、「子どもを預けて税金を納めて社会を回している」んです。

あの婆ちゃんにはわからない理屈かもしれないけれど。

高齢者施設で働く人がいなくなった理由

コロナが一般的な伝染病になってきたので、超久しぶりに母の施設に行きました。今までは施設の中に入って何かあったら困るので、会うのはいつも外でした。

それなりに差し入れた手作り惣菜などを一緒に食べていたら、話好きの母が「介護の人たちがごっそり辞めたんだよ。何があったんだろうね」と言います。

ごっそりといなくなったのは何かあったに違いないだろう。高齢者施設は何しろ人がいつかないところだけど、ごっそりとやめたとなると、たぶんみんな団結して辞めたんだろう。人手が足りなくて困っているだろうと思っていたら母が「そのせいだかなんだか、食事のトレイの箸が3本だったり、1本だったり、めちゃめちゃ。この間はいつも怒っているおじいさんが大きな声で叱りつけてたわ」

わ、目に見える。

「そんなことをするからみんな辞めるのよ。給料は安いし、じいさんばあさんは口うるさいし、細かいしだから」と言ったら

「箸2本を並べるなんて大したことじゃないじゃないか。こんなミスしてって、みんな言ってる」

ミスだって。母はこちらにきてから英単語が増えた。この間は「ディサービスがハードで」と言っていた。ハードだって。きっと周りの人たちが言っているんだろう。

90歳を過ぎても進化ってあるんだなと思いながら、これだから高齢者施設には人が来ないんだわとしみじみ感じていました。

思い出が終わる時

東京に来たのは2009年の3月からですが、その前に準備のために何度か訪れていました。2月のある暖かな日、自転車10分ほどのところにあるパン屋さんに行きました。たくさん種類があって、トレイに自分の好きなパンを置いて会計する形式のパン屋さんです。

そのパン屋さんの出入り口はテラスになっていて、買ったパンをそこで食べることができ、50円ほどの安い値段でちゃんと抽出されたコーヒーも飲めます。

ぽかぽかと暖かな昼下がり、サンシェードにうすぼんやりと映ったお日様を見上げ、「幸せだなぁ」とつぶやきました。

故郷は今頃小雪がちらついているか吹雪か、毎日グレーの空の下でみんな「さむさむ~」と言いながら過ごしているだろうに、私はこんなにさんさんと太陽の下でアンドーナツを食べている。

「幸せだなぁ」とひとかじりしたアンドーナツは私の好きな粒あんではなくこしあんだけど、からりと揚がった皮にまとわりついたグラニュー糖が、じゃりじゃりと口の中で擦れ合いながら、アンコと皮と混じり合いながら喉を下っていく。

そのパン屋さんが日曜で閉店になりました。コロナ以降、あちこち閉店になることが多くなりましたが、松屋とこのパン屋さんは私の「東京への第一歩」の象徴のようなものでしたから、寂しいものがあります。

こうやって時が過ぎ、いろいろなものが変わっていくんだ。それは仕方のないことなんだ。

そうは思っても、思い出フェチの私としては、またあの時と同じようにアンドーナツを買って、テラスに腰掛け、あの時のことを思いながら、グラニュー糖まみれのアンドーナツにかじりつくのです。