ネットの世界というもの

まだ20世紀の頃、私がはまったのはML(メーリングリスト)でした。誰かが話題をふれば、いろんな人からレスポンスがついて語り合える場所。

そこには私の周りにいるような普通の人ばかりではなく、むしろ、私が持っている一般常識を覆すような人がたくさんいました。

一番楽しかったのはWoman’s MLという、女性だけのMLでした。他のテーマのMLにも入っていたのですが、どうもオトコは理屈っぽく、何かへたなことをいうと噛みついてきて延々とバトルを仕掛けられるので苦手でした。

何より話題が「焼き芋」とか「お気に入りの旅行先」などやわらかいのがいい。私も最初はどんどん積極的に発言していったのですが、後期は他の人たちの投稿を読む方が多くなりました。まぁ、ベテランになるとそうなるものです。

その中でちょっとした出来事がありました。そのMLにはリンさんという、みんなから一目おかれている方がいました。どうやら彼女のお仕事はIT系のようで、PCに関することは特に知識が豊富でした。

ある日ある時、「はじめまして」と入ってきた新人さんがいたのですが、その新人さんが「リンさん、もしやあなたは〇〇先輩ですか?」と投稿しました。なんでもリンさんの経歴がその先輩と被るというのです。

「あれま、懐かしい名前を言ってくださったあなたは誰?」

「やっぱり〇〇先輩だったんですね!バンビです!!」と嬉しそうな返事が来て、それから先は興奮して「高校時代の〇〇先輩は頭脳明晰、学業優秀、スポーツ万能、ピアノが上手でみんなの憧れの的で」とはしゃぎまくったメールがやってきました。

「まぁまぁ、およしよバンビ。こんなところでそんな風に言われたら照れちゃうじゃない」とリンさんの余裕のお返事。

周りからは「リンさんは昔から人気者だったんですね」「そんなにもてたんですか」と儀礼的な誉め言葉が飛び交いました。

私はと言えばなにしろネットの世界に棲んで何年という時期でしたので、そんな話をまともにとるわけがない。これはリンさんの一人二役だと思っていました。

#こうやって自分で自分を褒め称えるひとり芝居をするのって、侘しいもんだなぁ

そして月日が経ち、このMLで仲良くなった人たち10人ほどがオフ会を開きました。旅館の一室に布団を敷き詰め、「あの頃は楽しかったねー」とひとしきり昔話を始めたとき、誰かが「あのリンさんの一人芝居は笑えたよね」と言い出しました。

「え?あれは一人芝居だったの?」と驚く半数。

「えーー、あれを本気にしてたのーー?あんなの嘘に決まってるじゃない」と言った残りの半分は「たまたま同じMLに高校の先輩後輩が入っていて、後輩が入ってきたとたん絶賛の嵐の投稿するってあり得ないじゃない。もし本当に先輩ならDM出して確かめるわよ」

「えーーーー!!」

世の中には人を疑うということを知らない、心のきれいな人がいるものです。その時まであの大絶賛の投稿が本当に行われていたと本気で思っていたのです。

ネットの世界には嘘も真実もごちゃまぜになってモニターに映し出されます。どこまでが本当でどこまでが嘘かわからない。「僕はイケメン3高」が歯の抜けたつるっぱげのおじさんなんて普通にあります。

ネットの世界は奇跡のような良いことも、目の前が真っ暗になるような嘘もあるということをこの20世紀の終わりにとくと体験させてもらったのがこのMLでした。

今はSNSの時代。ネットは特別なことではなく、ごく自然に生活の中にあるものになりました。実際ネットがなければ私はモラハラを知ることもなく、こうやって被害者同盟を立ち上げることもなかったでしょう。

あの時一人二役をして虚像の自分を作っていたリンさんは、今頃どこでネットをやっているのかな。リンさんは本当に女性だったのかなぁなどと、時々思い出していたりします。