どうしても手のかかる子

私は長い間働いていましたが、その中で思うことがありました。

「世の中には手のかかる人が1割いる」

例えば役所を考えてみましょう。ほとんどの人はお役所とは生まれた時と死ぬときに行くものですが、これは本人は行かず(行けず)他の方が行きます。その他に必要なのは引っ越した時、住民票が必要な時、課税証明書などの証明書が必要な時、保険や年金の手続き、それくらいではないでしょうか。

小中学校へ入学するときは自動的に役所から通知が来ますので自分から行くことはありません。後は保育園の申し込み、老年期になってから施設の申し込みなどでしょうか。

正確に数えたわけではない肌感覚ですが、世の中の9割の方はまずほとんど役所に来ることなく、役所の人間が自動的に働いて世の中を回しています。ところが産まれてからずっと役所とつながり続けないと生きていけない方もいます。DV被害者や生活保護の方、障害のある方など、ずっと役所と関わり続けなければならない方は一定数います。

役所以外でも、お店で「これをください」とさっさと買って帰る人もいれば、「これはどんなものですか?」と説明を求める人、「これは思っていたものと違うから取り替えてください」と言う人、クレームをつける人などなど手のかかる人もやっぱり一定数います。もしみんなが何もなく自分の欲しいものをさっと買っていくだけだったら商品知識もいらないし、面倒なカード払いの払い戻しやり方を覚える必要も、クレーム対応研修もいりません。店員さんの数は半分で済むでしょう。こういったイレギュラーな人がいるために、店員の数を減らすわけにはいかないのです。

どの世界でも「手のかかる人」は一定数います。

前置きが長くなりましたが、子どもも同じです。手のかかる子どももいれば、放っておいても勝手に自分でやっていく子どももいます。きょうだいで下は手がかからないけど、上は手がかかる場合があります。同じきょうだいで同じ人(親)が育てたのにやっぱり違います。それは「個性」というものだと思います。

その子にはその子の個性があります。遺伝的なものもあれば、先に生まれた、後に生まれたによっても違いますし、たまたまそういう環境で育った場合もあります。つまり子どもはみんな違います。

我が家は生まれたときは上が手がかからず、下は手がかかる子でした。特に夜泣きがひどく、私も子どももよく生きていられたものだと思います。成長すると上は手がかかる子、下は手がかからない子になりました。下は勝手に自分でなんでもやっていきますから、いわゆる放任野放し状態でOK。ところが上はとても繊細な心を持っているので、注意深く見守らなければなりませんでした。

世の中には子育て本がたくさんあり、その多くに「子どもは指図はするな、見守れ」とあります。私も基本的な部分は賛成ですが、中には手間をかけることが必要な子どももいます。言わなくてもわかる子、言ってもわからない子、どうやってもわからない子は一定数います。飲み込みの悪い子は手取り足取りしなければ理解できません。

母親に十分な時間や忍耐力があればニコニコと見守って「できるまでがんばろうね」と言えますが、仕事、家事子育てと分単位で追いまくられている母親に「見守ろう」はかなりハードルが高いだろうな、見守りのできない母親は失格と言われている気がするのではないでしょうか。

子どもがひとりならまだ何とかなる。でも、二人、三人になると、今度は子どもたちの関係性が出てきます。子どもが二人になると手間が2倍になるのではありません。上と下の子の個性と関係性に目を配らなければならないので4倍になるのです。それが三人になれば9倍です。

親が亡くなった時に起こる遺産相続を巡る争いの根源は、この関係性に帰することが多いのです。何十年たっても「お兄ちゃんにしてくれたことを私にしてくれなかった」と言って骨肉の争いになるのはよくあるケースです。きょうだいは他人の始まりです。

子どもにはその子の個性に合わせた育て方が必要だと思います。ふたりの子どもを30歳過ぎまで育てた私の実感です。