それは2019年秋、翌年から始まるオリパラのため、代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで事前研修がありましたが、その中で多くの時間が障がい者理解のために使われました。
一番印象にあったのは、「障がいがあるとはどういうことか」というような映画でした。その映画を見る前に「障がい者に対する意識」を紙に書き、見終わった後にもう一度同じタイトルで紙に書くというものがありました。
前と後でガラリと書いた内容が違ったのは私だけではなかったと思います。
とあるオフィスの昼、若い男性が仕事で外に出ると目の前がくらくら~
気づいたと思うと、そこは見慣れぬ世界でした。越えようとしても越えられない段差、小さすぎて見えない役所の文字、まごつきながら歩いていくと「やぁ、ひとりかい、偉いね~、次は世界旅行かな~?」と笑うのは、こちらの世界では障がい者という部類の人。彼は障がい者になってそちらの世界に行ってしまったのです。
という映画でした。結局彼は元の世界に戻ってくるのですが、彼が生活していた世界は、人によってはとても困ったことが沢山あることに彼は気づきました。でも、それは気遣いさえすれば(今はaccessibilityと言いますね)差はなくなり、みんなが暮らしやすくなります。
見る前は「体の不自由な人はかわいそうだから助けなければならない」だったものが、「体が不自由な方と健常者はまったくかわらない」になりました。「体が不自由なのに頑張っていますね、すごいですね」というのはもうその時点で相手と上下を作ってしまい、「体が不自由=不幸」の刷り込みで相手を憐れむべきものと思ってしまっていました。
かわいそうな人だから助けなければというのは一方的な驕りでした。体のどこかが違っていても、まったく何も関係ないのです。
ただ、不便なことはあるからお手伝いする。それだけです。「体が不自由なのにがんばっている」と思いながらパラリンピックを見るのは違うなと思います。与えらえた環境の中で頑張るのは障がい者だろうが、健常者だろうが同じです。
恵まれた才能でスポーツをする人、努力で同等の技量を持つことができた人。健常者が差があっても競っているように、障がい者もそれぞれの環境でスポーツをしている。それだけなんだなぁと思います。
ところで車椅子競技はもうそれだけで独立した競技にしてしまってもいいような気がします。障がいがあってもなくても車いすに乗って競技する。あの車椅子を操ってのドリブルは一見の価値がありますよ!ちなみに車椅子バスケは手袋などははめず(ボールをつかむから)、素手でホイールを回しているそうです。手の皮がどんだけ厚くなるんだか。
周りで若い女子が「ちょーかいさ~ん」と目をキラキラさせて言うので車椅子バスケを見てみたら、なるほどイケメンプレイヤーでした。ぜひぜひテレビでちょーかいさ~んをご注目ください。
【オマケ】ママリンピックピクトグラム