演技は結構重要

東京に来た年は派遣仕事を転々としていました。その中のひとつに書類整理がありました。大勢の派遣社員が机の上に積まれた書類を整理し、次のセクションに回す仕事です。簡単楽ちんな仕事ですが、給料は都の最低賃金でした。実は雇用者側は最低賃金よりも500円高い給料を出していて、派遣会社を通さないで来た大学生などはウハウハの人気の高い仕事だということは後で知りました。

書類整理は慣れていますから、黙々とこなしていたある日、書類が1枚ありません。書類にはナンバリングが打たれているので、番号は続いていなければならないのに1つ飛んでいる。私がやり終えた後にチェックをして見つけたものだから、最初はあったはずです。

やり終えた後の書類を全部見直してみてもありません。仕方がないのでチーフに「書類が1枚見当たりません」と報告しました。チーフは「変ですね。どこかに紛れたのかな。少し時間を置いてみましょう」と言って次の作業をするよう言われたので、言われたとおり、次の書類の山に取り掛かりました。

誰も出入りのない場所で書類が消えるわけがない。おそらくどこかに紛れてしまったのだろうと、私も思いました。こういう時は必死で探して時間を無駄にするよりも、みんなが同じ作業をしているわけだから、誰かのところからひょいっと出てくるであろう、というのは長年仕事をしていれば経験上わかっています。

だからチーフに言われた通り仕事を続けたのですが、向こうの方で2、3人の人たちが「呆れたわねぇ」「平気な顔をしているわよ」とチラチラこちらを見ながら話をしています。

う~ん、困ったな。前線で長い間仕事をしていましたから、卒倒したくなるようなアクシデントは山ほど経験しました。眠れぬ夜も何百回とありました。死んでお詫びをしなければならないような出来事もありました。そんな経験を吐くほどしてきた身としては、書類1枚が無くなった程度でアタフタなんかするわけがない。

でも、責任感あふるる方たちはそうは考えないようです。こちらをチラチラみながら仕事を続ける彼女たちは、時折顔を見合わせては口に出さない相槌を打っています。

「熊谷さん!あったわよ!」

声を出してくれたのは仲の良いスタッフのひとり。

「えーー!ほんとーーー!!!助かったーーー!!ありがとーーー!!」

これはホント。探し物が見つかった時は本当に嬉しい。

「あの時紛れたんだね」と言いながら書類を揃えましたが、私は反省しきり。

こういう時は演技でも心配で死にそうなフリをした方がいいようだ。

何かアクシデントがあった時は、あわてず騒がず、大したことではないフリをしてみんなを落ち着かせ、次にどういう手を打つかクルクル頭を廻らせるのが仕事だったから今回もそうしたのですが、それはこういう場合はダメなのでした。責任感を持って仕事をしている証として、書類1枚が無くなったことで青ざめておろおろせねばならなかったのです。書類を無くした犯人が気も狂わんばかりに探し回っていれば彼女たちも溜飲を下げるのですが、平気な顔をしていたので、彼女たちの責任感に火をつけてしまったらしい。

あー、めんどくさ。

元夫と暮らしていた時、子どもが病気の時やケガをした時に、私が「大したことないわよ」というと夫は怒り狂うので、「大変だわ、どうしよう」とおろおろして見せると満足げに「大した事ないだろう」と言いいます。

母ならば子どもが病気をしたら寝ずの看病をして、ケガをしたらつきっきりで介護するものだと思い込んでいる夫です。子どもが第一。子どもを何よりも愛している母親でなければ夫は満足しません。もちろん子どもは大事だし看病もするけど、風邪ごときで髪を振り乱してまでするほどのもんではなかろうが。

人間関係をスムーズにするためには、アホらしい演技でもした方がよいようです。