GWには実家へ

まだモラ家で暮らしていた頃、GWには夫の親戚が泊りがけで訪ねてくるのが常でした。夫は親戚をもてなすのが大好きなので、その期間はとても機嫌が良く、親戚の方々もみんな良い方で、GWはそれほど気を使わなくても良く、助かったものでした。

ただ、それを快く思わない人物がいました。プーチンスカヤ(母)です。

よその家では続々と子どもが帰ってくるのになぜ自分の家の子は来ないのか。ちょっとは孫の顔でも見せに来るものだと小言も度々でした。でも元モラ夫は車の運転ができないので、私がいないと親戚をもてなす買い出しや、親戚が行きたいという観光地に連れて行くことができないので、私は身動きがとれません。

「ったく毎度毎度帰ってくる人たちだこと!ちっとは遠慮したらどうなんだ!」と電話口で怒鳴り散らし、「1日だけでも帰ってこないか?」と言うけれど、「それは無理」と言うと、「じゃ、がんばってや!!!!」と怒鳴ると電話をガチャ切りしました。

母にはモラ夫に逆らうと機嫌が悪くなり、その後、何週間も無視をするのだと言ってあったのですが、その「何週間も無視」ということが理解できないようなのです。母は近所の手前、子どもが誰も来ないことは世間体が悪い、世間話のタネがないから「実家に来い」という理由です。

元モラ家のGWはひたすら親戚のもてなしの日々ではありましたが、何しろモラ元夫は外面大将なので、その時は機嫌がいい。

そしてそのストレスはGW明けにやっているのでした。

奇妙な「家族団らん写生会」

私が小学4年の頃。父親は月に数回酒を飲んでわめき散らす、母親はそのストレスをまともに子どもにぶつける。家は貧乏、学校へ行けばお金持ち大好きの教員から嫌われるという生活でした。

ある日曜日の朝、突然母が「家族団らんをしよう!」と言い出しました。

今思うと笑えてしまうのですが、家族団らんとは取り立てて始めるイベントではなく、日々が楽しく暮らせていればそれが家族団らんというものではないでしょうか。母が「家族団らんをしよう!」言った瞬間に私は「けっ!」と思いました。小学4年生です。

10歳でもこんな大人の幼稚な取り繕いに気づき、「けっ!」と思う頭は持っています。今10歳以上のお子さんをお持ちの方は子どもは幼いからわからないだろう、気づかないだろう、子どもなんだからと思っていても、子どもは大人が思っているより頭のつくりは大人です。

毎度毎度酒を飲んでわめきちらし、母は子どもに決して言ってはいけないことを叫びちらし、ナニが家族団らんじゃい、笑わせるんじゃねぇと思っていました。

母が思いついた「家族団らんイベント」は写生会でした。こたつの上に花を挿した花瓶を置き、それを4人で写生するというものでした。

母は必死で家族仲良い風景を作りたいと思っていたでしょう。がんばって家族らしいことを「お金をかけずに」やりたいと思っていたでしょう。そのがんばりがミエミエな分、私の頭の中には「浅はか」という文字が浮かびました。

#そんなわざとらしいことをするよりも、子どもたちに毒吐きするな

モラハラ被害者の方の中には「子どもが自分の辛さをわかってくれない」「私の味方をして、一緒に夫の悪口を言って」という方はいますが、これはやめた方がいいでしょう。結婚は夫婦で決めたことで、子どもには関係ないことです。子どもには楽しくのびのびと暮らす権利があります。その権利を守るのは親の役目です。

さて、写生会は終わり、ご丁寧にそれぞれの作品を見せ合いながらの寸評になりました。「お母さんのここがいい」「早智子は色がきれい」などと家族団らんごっこをしてお開きになりました。ありがたいことにこの家族団らん写生会はこれ一度だけで、二度と開かれることはありませんでした。

プーチンスカヤの祈り

タイトルの「プーチンスカヤ」とは母の新しいニックネームです。まさにぴったりなので私が命名しました。もっともうちのプーチンスカヤの全盛期は過ぎ、もはや力は無くなりました。息子や娘に攻撃をしかければ、向こうから縁切りを言われそうなので、彼女の攻撃方法はひたすら哀れな年寄りを訴えることです。

たまたまニュースを見ていたら、家族がウクライナにいる方たちが日本の教会で祈りを捧げているシーンがありました。「お父さん、みんな祈ってるよ」と電話で伝えると、ウクライナからは「祈りはいいから金を送ってくれ」と返事が。

緊迫の中で祈りを捧げるシーンに「祈りよりも金」という、何とも現実的なセリフで思ったのは、母はいつも「私はいつもお前たちのことを祈っているよ。朝昼晩と神様、仏様、死んだお父さんにどうか頼むとお願いしているんだよ」という言葉です。

「あ、そ。祈るのはタダだからね。どうぞ祈って祈って」とある日言ったら、ふて腐ることふて腐ること。

「お父さんの遺産は全部私のものだから」と全額自分の口座に移すように指示した彼女。お金に関わることは気が狂ったようになる人です。

昔仕事場で寄付集めをした時、同僚たちは実家に頼みに行くというので、そうかと私も行ってみました。「これこれで寄付を集めてるんだけど」と父に言うと「千円でいいのか?」と言って父がズボンのポケットから財布を出そうとすると母が飛び込んできて、「お前は年金生活者に金をせびる気か!」「お父さん、いいから、出さなくていいから」と言って押しとどめました。

確かに年金生活者ですが、「うちは他の家よりずっと年金が多いから、額を言えないんだよ」と自慢そうにしていた母。あちこち旅行に行き、お取り寄せグルメを買っていました。その人が娘が千円の寄付を頼むと「金をせびる気か!」と怒鳴りつける。その剣幕のものすごさに、すごすごと財布をまたポケットに戻した父。

母の観念としては子どもが大きくなったら親に仕送りをするもの、親へ小遣いを渡すものということになっています。それなのにまったくお金を渡そうとしない子どもが、さらに金をせびりに来るとは何事か!ということなのでしょう。

今はめっきり大人しくはなりましたが、お金に関することになるときりっとします。

そうなんだと思う。ウクライナも「祈るよりも金をくれ」なんだと思う。うちのプーチンスカヤは今日もウクライナに平和をと祈っているのでしょう。支援金は。。出さないだろうな。

受験は親も子も狂います

以前この記事を書きました。

この時期恒例の受験ネタです。

昨年秋、道で元同僚にばったり会いました。なんとなく立ち話をしていたら、「娘が中学受験。成績が低迷し、思春期も重なって大荒れで手がつけられない」と心底困っているよう。彼女、子どもが生まれたときは「うちは公立一本だから。私立なんか考えてないから」と言い切っていたので、「子どもが希望する場合もあるわよ」と言ったのですが、「うちみたいに低収入(本当は高収入)な家は無理。絶対に受けさせない」。

子どもはこう育てるんだ、こうするんだとかなり理想の子育てをしていましたが、どうやら思いと実際は違ったようで。

#育児書どおりに育ったら、こんなに育児書が流行るわけない。みんな思った通りにできないから本に飛びつく

一応アドバイスをして、「受験は親も子も狂うのよ」と言ったら、道の真ん中で身もだえし、「狂いますよねーーー、狂いますよねーーー、そうなんだーーー、みんな狂うんだーーーー!!」と大絶叫しました。

#相当まいっていたみたい

私も通った道だから本当によくわかる。あの時期は自分はどうかしていたと思うほど、試験に落ちたらどうしようかと、そればかり考えていました。地方は高校名で一生が決まるというほど高校が大事。高校名を告げたら就職は門前払い、交際していた相手から結婚をお断りされ、結婚するとあからさまに相手の家から蔑まされ話の中にも入れてもらえない。「お正月は私だけキッチンで料理の上げ下げしてるのよ」と聞いたことがあります。高校名を偽って結婚した人もいます。

この差別をまともに受けるのは女性よりも男性の方が大きく、それゆえ受験に熱心なのは母よりも父の方が強かったりします。社会の中で高校名で差別されるのがどれほど辛いことか、身をもって知っているからです。

これくらいのあからさまな差別のある高校名。高校受験は一発勝負。地方は公高私低。公立高校受験に落ちたら辛い人生が待っていると思うと、正気の状態ではいられません。そのため、中学浪人をする人がとても多いという現実があります。この話を東京でしたら「中学浪人なんて考えられない」とびっくりされました。私の頃は裕福な家は公立高校に落ちたら、他県の私立高校に進学する人もいました。

埼玉でこの話をしたら、「埼玉もそうですよー。あからさまですよー」と言われました。首都圏の埼玉でもそうなのか。うちの子と同期の子の母親で精神科に入院した人がふたりいました。

高校で一生が決まるわけではないというのは事情を知らない人の言うこと。一生が決まることもあります。

「後からなぜあの時あんなに思いつめたんだろうって思うんだけどね」と彼女に言うと、泣きながらうんうんと頷いて、「やっぱり同じ経験をした人の話は説得力がありますー。同じ思いをしないとこの気持ちはわかってもらえませんもん」

「子どもの力を信じて」「これで一生が決まるわけじゃない」と聞いたようなことを言われても、狂った親や子には届かないのです。

父と娘の関係

思春期の娘が父親を毛嫌いするという話をしていた時、ある男性が「それは近親相姦を防ぐための自然行動である」と言いました。彼はだいぶ人間の行動について研究をしたのだそうです。

「自然っていうのはそういう風になっているんですよ」「そして男性が若い女性を好むのは、繁殖のためには若い方が有利だからです」とも。

なんだか男が若い女に群がるのを肯定するための屁理屈じゃありません?だったら女性も若い男性を好むはず。

「女性が妊娠できる期間は限られていますが、男性はそうではありません。80歳になっても繁殖能力はある。だから子どもが生まれた後に育てるための資産を男が持っているかを女性は気にするでしょ?女性は一生に産む数は限られていますが、男は作ろうと思えば何万人でも作れますからね」

そして最初に書いたとおり、思春期の娘が父親を毛嫌いするのは当然なのだと言う。

「でも、私は父を毛嫌いしたことはないですよ。思春期の頃も臭いなんて思いませんでした。大好きというわけではないですが、嫌いではなかったです」

「そういう例もあります。私の研究ではね、父と仲の良い娘は仕事ができるんです」

あれ?誉められちゃったのかな。

確かに大人になってからはまったく社会の常識がわからず、ピント外れの母親よりも、社会経験の豊富な父の方が話が通じるので、父親の方とじっくり話し込むことが多かったように思います。

「子どもが自分の味方をしてくれない」「もっと父親を避けて嫌ってほしい」という被害者の方は多いです。ですが、社会に出て働くようになると、父の気持ちもわかるようになり、むしろまったくピンぼけなことしか言わない母親には何を言っても無理、ということになるという話は成長した被害者の方からも聞きました。

父を嫌ってほしい、私の味方になって労わってほしいと思わず、娘の話をじっくり聞くことも必要かもしれません。

壊れた母

長々と書いてきましたが、横暴だった父親が年を取ってから正気になり、定年になる頃はむしろ社会通念を知っていて、働いている子どもと話は合うし、アドバイスや協力もしてくれるようになったという話は時々聞きます。我が家もそうでした。

ところが壊れてしまった母は、もう元には戻らない。社会で生きていくための知識はなく、ひたすら昔の恨み言と父親の愚痴を言い、不満ばかりを垂れ流す困ったちゃんとして家族からも疎まれています。

こんなはずではなかったと思うでしょう。本来ならば自分が耐え忍んで守った家や子どもなのだから、全面的に自分に感謝し、自分の味方として夫と対峙してくれるはずだったのに、なぜか夫と仲良くしている。

面白くない。自分がいなければこの家は成り立たなかった、生活も、経済もすべて自分が耐えて堪えて、必死で守ってきたから今があるのに、なぜか子どもは自分に感謝せず、ひとりで大きくなったような顔をしている。

それでも家事ができている母はまだ家事労働者としての存在感はありましたが、子どもが独立したらそれも無くなって、ただの愚痴垂れ流しマシーンとなってしまいました。

今、モラハラ夫と共存している方に向けてこれを書いています。家や子どもを必死で守り抜いた後、子どもたちがこぞって感謝して今度は自分が守られると思っていると、足をすくわれることになります。

もちろん苦労した母を思い、その苦労に感謝し、定年後家にいてまだ横暴の限りを尽くしている父親から母を守っている子どもはとても沢山います。では、どこが違うのか。

守られる母は愚痴の垂れ流しなどはしません。ひたすら不満ばかり言い続けたりしません。精一杯自分の人生を生きようとしている母だから、かばいもするし感謝もする。義母がそうでした。

私の母よりもよっぽど苦労していましたが、その昔話はたまに聞くことはあっても頻繁ではない。いつも私のことを気遣ってくれて、何も言わなくても助けてくれました。もし義母が生きていたならば、介護もしたかもしれません。でも、義母は介護を望みはしなかったでしょう。そういう人だから感謝もできるし心からのいたわりもする。

そこが違うのだと思います。

一番の戦犯は誰だ

延々と母について書いてきましたが、では母は最初からこのような人だったかというと、そうではありませんでした。母が変わったのは父の転勤で別の土地に移ってからです。

それまでの記憶として母にいじめられたとか、ひどい言葉を投げつけられたとか、そういう記憶はありません。8歳までは両親から本当に愛されて育てられてきたと思います。

1年生の時に母が作ってくれたハモニカ袋には、母が得意だった刺繍でピンクの花がステッチされていました。その花模様は今も覚えています。

新しい土地に行き、父は仕事でパワハラに遭い、さらに「自分は秀才」というプライドと学歴がない劣等感でそのストレスを酒で紛らわすようになりました。

元々酒は強くない人で、いわゆる酒乱。飲んで帰ってきては泣きながら吠える吠える吠える。

ふとんの中で耳を塞いでいても、父の吠える声と、なだめる母の声は聞こえてきます。

夜7時を回っても父が帰って来なければ飲んでくるということ。母は小学生の私に会社に電話をかけるように言います。父が会社にまだいれば、家族がほっと胸をなでおろし、いなければまた飲んでくるのだと家中が暗くなり、厳戒態勢になります。父は会社で「7時の男」と言われていたそうです。

何度も夜親戚や電車で2時間の祖母の家の家に避難し、近所の旅館に泊まったこともありました。飲んでくるにはお金がいる。父が生活費を飲み代に使ってしまうせいで、いつも母からは「金食い虫」と言われ、母の機嫌が悪くなるのが怖くて「お金、ください」が言えない。

さらに住んでいたところが社宅で、近所は全部会社の人たち。学歴がないので一向に出世しない父。近所の奥様方とのヒエラルキーに、負けず嫌いの母が反応しないわけがない。

とにかく家を建ててここを出たい。家を建てるお金を作るため、子どもの学用品や着る物や食べるものには全部事業仕分けで避けられました。

一番の戦犯は父です。これはもう間違いない。会社でパワハラに遭っても、秀才なのに学歴がないために出世できなくても、そのストレスを家に持ち込んだのは父の甘さです。家族への甘えです。

#パワハラに遭っていたら、外で酒を飲んで家族にあたってうさを晴らしてもいいのかと思う。私もパワハラに遭ったけど自分でなんとかしたぞ。子どもに当たり散らすなんてしなかったぞ。

ひたすら父のプライドの高さが母を壊し、子どもたちは機能不全の家庭で育ったACとなりました。

ところが父が50歳を過ぎた頃、父曰く「なんだかつきものが落ちたようにすっきりした」のだそうです。もしかしたらパワハラの原因が無くなったのかもしれません。

それからは酒は宴会などでたしなむ程度。酒さえ飲まなければ良い父親ですし、単身赴任で週末しか帰って来なくなったこともあり、家には平和が戻ってきました。

でも、壊れた母は変わらない。「自分は世界で一番不幸」という被害者意識だけを大量に抱え込み、家族の中でいつ爆発するかわからない困ったちゃんになりました。

母はもうどうでもいい

こちらの続きです。

もう母親に対しては恨みがあるとか、愛して欲しかったとかそういう気持はまったくありません。彼女は彼女なりの気持ちで娘を育ててきたと思います。ただ、彼女は「嘗めるように娘をかわいがってきた」と思い込んでいるでしょうから、実際にしてきた子育てと私の気持ちとの間に相当の乖離があり、それを塞ぐことは無理だと思っています。

それを実現させるには

「彼女にはその能力がない」

それにつきると思います。

能力のない者にそれを求めても無駄。ちょうど精神障碍者は罪を負わせないと同じ感じです。本人に自覚がないのに罪を償えと言っても、言っている意味がわからないのだから、言うだけむなしいという気持です。もう、アホらしいというか。

信田さんは昔からACについて、沢山の本をお書きになってきました。それまで「どんな親でも子どもを愛している」「親に孝行しろ」という大合唱に、正面から「子どもを愛せない親は確実にいる」さらに、「その数は世間が思っているよりもずっと多い」とも提唱してきてくださっています。

この記事では、5月6日に放送されたクロ現プラス「親を棄ててもいいですか」になぜ出演されたかも書かれています。

NHKクロ現プラスの中で、若くてきれいな女性アナウンサーが「例えば親が死ぬ時に立ち会うことによって、今までの経験を整理して、次への一歩を踏み出すきっかけになるのではないでしょうか」と言った時、思わずいらっとしました。

#あなたはきっと母親に愛されてきたんでしょ

#NHKのアナウンサーになるくらいだから、何の不自由もなく好きな学校に行けて、暖かい家庭で育ったんでしょ

このアナウンサーの言葉はこの回の冒頭、親が死んだ時に出棺に立ち会わず、代行業者を使った人に対する言葉です。

「せめて親が死んだときぐらい、立ち会えよ」という世間一般の、常識という無邪気な悪意に満ちた言葉を発しました。

それに対して間髪入れず信田さんが「そうなったらいいですよね。でも、ドラマみたいに行かないんですよ」と言いました。

きっとこの女性アナウンサーの頭の中は「???」だったでしょう。

それくらい、親に愛されてきた人とそうでなかった人には大きな隔たりがあります。

この記事の中で信田さんは「親に謝って欲しいのです」と書かれていますが、私はとうにその気持ちはありません。理由は最初に書いた通り、意味のわからない謝罪をされたところで嬉しくもなんともない。今そんなことを言ったら「ナニ企んでるの?」としか思えない。

親に謝って欲しいと思っている方は、まだまだ道半ばな方なんだろうなと思います。

私は別に親を棄てたいとは思っていません。ただ、その親が私や私の家族(子ども)の平和を脅かそうとする行動に出たら、一気に排除します。母はもう私に家族の一員ではなく、遠いお星さまの居住人。そこからインベーダーとしてやってくるなら、地球防衛軍として断固侵入を阻止します。

遠足の敷物

こちらの続きです。

私は小学2年生の途中で父の仕事の関係で県をまたいで引っ越し、転校しました。県によって風土や文化が変わるもので、引っ越す前の件は質素倹約がモットーの県でしたが、引っ越し先は見栄っ張りの派手な県でした。

「遠足に行くから座る時に敷く敷物がいる」と母に言うと、「ほらっ」と言って渡されたのは父のスーツをクリーニングに出して、戻った時に包んでいる透明なビニール袋でした。

そのビニール袋を持って遠足に行き、お尻の下に敷くと、セツコちゃんから「さっちゃんちも生活保護もらったら?」と言われました。

#母が「かわいそうな貧乏な家の子」と言っていたセツコちゃんからそう言われたと知ったら、どう思うんだろう。いまだに言っていないけど。

確かに私はうっかりが多く、きちんとしているとは言い難いのですが、それでもなにぶん女の子なので、傷つくことは多かったです。

筆箱を壊してしまった時は、「お前は物を大事にしない」と言われ、父が数十年前に使っていたセルロイドの筆箱を渡されました。肌色に変な模様が入り、あちこち割れて中が見える筆箱でした。

それをずっと長い間使っていましたが、今度は手動鉛筆削りを壊してしまいました。再び「何でも買ってもらえると思うな」と言われ、小刀を渡され、それで鉛筆を削るようにと言われました。

弟はいつも最新式の文房具を買ってもらえているので、電動の鉛筆削りを持っているのですが、それは借りてはならないと言い渡されているので、不器用な手で鉛筆を削っていました。初めて小刀で鉛筆を削ったので、本当に不格好な鉛筆でした。

母は学校でみんながどんな物を使っているか、どんな生活様式なのかまったくリサーチしていないので、私の身の回りは「戦後の混乱期」がベースとなっていました。もっともわかっていても「よそはよそ!うちはうち!」と言ったでしょうが。

「よそはよそ!うちはうち!」↓

#でも、弟が最新式だったのはなぜなんでしょう。

#跡取り息子だから?

#老後に面倒をみてもらうから?

私は相談員として様々なご相談を受けてきましたが、相続争いは男女(兄妹、姉弟)で起こることが多かったのは、こんな事情があると思っています。

指を入れるはさみが欲しかった

欲しかったのはハサミでした。学校では文房具入れの中にハサミを入れなければならないのですが、中指と親指を入れて使うタイプのハサミを私は買ってもらえませんでした。

先生から「文房具を入れる袋を作って持って来なさい」と言われ、母にそのように伝えたのですが、おそらく何か母を怒らす出来事があったのか、鬼のような顔をした母が茶箪笥の引き出しを開けて引っ張り出し「ほらっ!」と投げつけてきたのは、テロテロした裏地がぐちゃぐちゃにシワになり、2センチほどの縫い目で3方、これまたぐちゃぐちゃに縫ってある袋でした。

長方形の一辺は縫っていませんが、断ち切りですから、ほつれてぼさぼさになっていました。

「みなさん、文房具入れは持ってきましたか?」と先生が言い、「はーい!」と言ってみんなが手に文房具入れを持って掲げた中に、そのぐちゃぐちゃの袋もありました。先生は嫌な顔をしてその文房具入れを見て、何も言いませんでした。

私はともかく女性の先生に嫌われました。たぶん整容検査のたびにハンカチは忘れているし、チリ紙も持っていない。(ハンカチは買ってもらえないし、チリ紙は家から持ち出すのを忘れているし)

ともかくきちんとしていないので、女性の先生は嫌だったんだろうなと思います。

その文房具入れの中にはハサミを入れなければならないのですが、母に「ハサミがいる」と言うと、また「ほらっ!」と言って放ってきたのは、裁縫で使う、いわゆる糸切ばさみでした。みんなが持っているような中指と親指を入れて使うハサミが欲しいのですが、それを言えばまた「金食い虫!」と、怒鳴られるので言い出せませんでした。

文房具として使うはさみが手に入ったのはいつの頃だったか。おそらく弟が使うようになり、母は初めて、学校では文房具として糸切りはさみは使わないのだと知った時かもしれません。弟に「学校で使うはさみはこれだ」と言われて弟に買い、そのおこぼれで買ってもらったのかもしれません。

母は思いっきり戦中に少女時代を過ごしていますので、物の価値観がそこでストップしているものがとても多いのです。

「お弁当に卵を入れてもらえるのはあんただけだよ」と言って、卵焼きとたくあんのお弁当を渡されても、すでに戦後20年以上経っていて、他の同級生が色とりどりのお弁当を持ってきている中、黄色と白のツートンのお弁当は、なかなかシュールでした。

それでも母は「お弁当を持たせてもらえるなんて、あんたは恵まれているんだから。貧乏な家の子は麦ご飯でおかずは梅干しだけなんだから」と言っていました。

母がいつも「かわいそうな家の子」と言っている生活保護家庭のセツコちゃんのお弁当が、麦ごはんでもアワでもヒエでもなく、他の子と同様のきれいなお弁当なのだとは、母は今でも知らないままなのだろうと思います。