ダイエットが必要なくなるお年頃

「70歳を過ぎたらなんでも食べて、とにかく体重を落とさないようにしよう」というネット情報を見て、はたと気づくとそれは私ではないかと思ったりしています。

60歳を過ぎて食が細くなり、とにかく量が食べられなくなりました。「小鳥がついばむくらい」というのは少ししか食べませんよという時に使われる言葉ですが、本当にそのとおりで、少し食べただけですぐにお腹がいっぱいになってしまう。へたをすると飴玉1個でお腹がふくれる。

3時のおやつに食べたクッキー1片で夕食時間になってもお腹が空かないということになるので、おやつも食べないようにしています。とにかく3食をしっかりととらないと体が作られません。

食べる量が少ないので、とにかくタンパク質中心に野菜、乳製品、ミネラルを含んだものを取るようにこころがけています。プロテインも使います。

とはいえ、ちゃんとお菓子も食べますからそこまで厳重にしているわけでもありません。

若かったあの頃、必死でダイエットをして、毎日グラム単位で体重を計ったりしたものですが今はそれは必要なく、食べたいだけ食べても体重は落ちたままを継続しています。

ただ、ジムで体を作っているので筋肉量はしっかりあって「筋肉系スリム」という体形です。

そうか。60歳を過ぎると食べる量が少なくなるから体重は落ちていくんですね。必死でダイエットをしなくても、年をとるとなんかこうなるみたいですので、あんまり必死にダイエットをしなくてもいいかもしれないですよ。

ただ、体幹を鍛えないと腰の曲がったおばあさんになるし、転びやすくなってけがをしたりするので、筋肉を衰えさせない運動はしておきましょうね。

私は結構ハードにやっております。

あの退職の日のこと

ショコラさんのブログでショコラさんが退職されたとの記事に触発され、私の退職日について何か書いていたかなーと過去を探しましたが何も書いていなかったので、ちょっと書いてみます。

ショコラさんのブログ↓

https://lee3900777.muragon.com/

私が退職をしたのは「すぐに終わるだろう」と思っていたコロナ禍がちょっとまずいことになったぞと変化し始めた頃です。

クルーズ船が乗客を下ろし、市中からマスクが消え、学校が卒業式ができなくなってしまい、この先、オリンピックはどうなるのだとざわめき立っていた春、私も長い間勤めていた職場を去りました。

上司から残って欲しいとは言われましたが、私は別のステージに移る決心をしました。2020年はオリンピックボランティアを始め、いろいろなイベントを行う予定でしたが、すべてコロナで無くなってしまったので残る道もあったのですが、もう9時から5時までの仕事はかなり体に負担がかかっていました。

ダラダラと時を過ごすよりも、新しい何かを見つけに行こうと思えるのは、もう扶養しなければならない子どももいなくなり、自分の生活だけを考えればよいという身軽な状態だったことが大きいです。

幸いずっとフルタイムで働いてきましたので、ぜいたくをしなければ暮らせるだけの年金はもらえることになっています。後は年金を全額もらえるまで何とかしのげればいい。

職場がどうのこうのよりも、コロナが深刻になっていく方が圧迫感のある3月の末。有休を半日残して使い終えたのは虫の知らせだったか。

最後の日はお世話になった方たちにご挨拶をするものですが、私の職場は自転車で行かなければならない離れ部署が沢山あり、一緒に過ごした方たちがそちらへも異動しているので、ちょっと時間がかかる。

「ご挨拶は私用だから有休をとるように」と言われた時は耳を疑いました。10年間も勤めてきて、その間にお世話になった方はたくさんいるし、大体最後の日は挨拶まわりで終わるものだと思っていたら、「それは私用だと」いう。

「えー、私が前に辞めたときはそんなこと言われなかったわよー」と同僚に言われ、私も挨拶まわりをするのに有休を使うなんて聞いたこともない。

捨てるつもりだった半日の有休をここで使いました。ええ、堂々と好きなようにあいさつまわりをしました。

有給なんだからと途中でパン屋に寄ってテラスでパンも食べました。有休だからこそ味わえる、退職のあいさつまわりの途中でイートインをするというなかなかない体験。このパン屋です。

コロナ禍のため送別会も無し。よくあるあのでっかい花束は飾るところがないので、こちらからお断りしました。断ってはみたものの、なにかおしるし的なものがあってもいいなと思ったので、近所の花屋で五百円のブーケを自分で買いました。

親しくしていただいた方たちから両手に持ちきれないほどの記念品をいただき、私も心ばかりのハンドタオルをみんなに配り、最後の日は終わりました。

とにかくコロナで世の中が毎日右往左往している時期に、それに紛れてささっと辞めたことがかえってよかったかなと今は思います。

「明日も明後日もみんないつもと同じように働くのねー」とつぶやきながら、私ひとりだけはここを去るのだという、この場所にさよならを言いながら、最初にここに来た時の満開の桜を思い出したりしていました。

スポーツに対する考え方は変わるか

今回のWBC野球は本当に見ごたえのあって、はらはら連続な試合に魅了されました。サッカーは試合中トイレタイムはないけれど、野球はトイレタイムもおやつタイムもあるので、とっても助かります。

今回大谷選手が大注目ですが、出身が岩手の片田舎というのが地方出身の私としては嬉しいことでした。サッカーは三苫選手を始め、主要選手がプロの英才チームに小さな頃から所属していたという背景があり、やっぱりそういうものなのかと一抹の寂しさがありました。

地方で生まれた者は、限られた環境と情報の中で、一生懸命頑張っても井戸の中の蛙だったりするものですが、今では指導者と環境があれば世界を目指すことができるようにもなっています。

小さな頃から川に石を投げていたから云々という話もありますが、やはりスポーツ科学は重要で、根性や精神力だけでは効率が悪かったりケガをしたりしますから、体に合わせたメニューが必要なんだろうなと思います。

部活で野球やサッカーをすると言えば、自由時間なし、長期休みは明け方から夜まで練習、親は弁当作りや場所取り(グランド抑える)、洗濯、送迎、遠征費やユニフォームとお金もかかり、親も覚悟がなければこういったメジャースポーツをさせられなかったものです。

#野球は特に丸刈り必須だったから、それが嫌さに野球部に入らなかった男子も多かったですね。丸刈りは甲子園大会を見ると今もでしょう

今回、試合後選手のみなさんが「楽しかった」とコメントしていて、あまり涙もなかったのが印象的でした。

スポーツは楽しいからする。もちろん練習は厳しいし、体づくりの筋トレは地味できついのですが、根性、精神力ではない、休養日も取り入れ、楽しい練習メニューにしたら、スポ根で離れて行った子どもたちも興味を持ってくれるのではないかと思ったりします。

背番号16に昭和の人間は思いを馳せる

今日のWBC準決勝はすごかったですねーーー。ラッキー祝日で、いつものように友人たちとLINEでの同時観戦となりました。

今まで危なげなく勝ってきましたので、どこまでもこの好調が続くと思いきや、追いつけば突き放されるで、まったく気の抜けないゲームになりました。

LINEの画面にはお祈りや汗のスタンプが飛び交い、「ドキドキする~~~」「心臓に悪い~~」の文字が飛び交います。たぶんTwitterとかもそうだったんだろうな。

家でひとりで観戦しても、なんとなく友だちと一緒に見ている感覚は未来的。コロナで現実になりました。

さて、今回の大目玉は大谷ですが、彼が背負っている背番号16を見ると、昭和生まれの私が一瞬で思い出すのは

星飛雄馬。

もう「ひゆうま」とキーボードに打ってもまったく変換されない古代感。

伝説の野球漫画「巨人の星」で主人公の飛雄馬は、読売巨人軍元監督の川上哲治が背負っていた背番号で、巨人軍の永久欠番である16を川上監督から授けられます。

あの頃、この漫画(アニメ)を見ていた人たちは背番号16と聞けば即座に星飛雄馬を思い出すと思うんですけどね。

WBCでこの16番が躍動するのを見るたびに、土曜の夜7時に放映されていた、まったく立体感のない絵を思い出します。

そして飛雄馬の父が腕を強化するために飛雄馬につけさせていたのが「大リーグボール養成ギプス」(当時はギブスと発音していた記憶が)。

今なら児童虐待ですが、たぶん日本のどこかで同じようなものを子どもにつけさせていた親はいると思う。身近にこのアニメに感化された父親が、夜になると嫌がる子どもを外に連れ出して、一緒にうさぎ跳びをしていたのがいましたから(子どもは高校生で家出。その後行方知れず)

あの頃「大リーグ」なんてどこの星かと思っていましたが、今や日本のプロ野球は大リーグに行くまでの腰掛けみたいになって、張本さんを怒らせています。どのスポーツもそうですが、目標は日本一ではなく世界一になっていて、あの頃と隔世の感があります。

「巨人の星」で大リーグからやってきた「オズマ」は、なぜか「ユー」とか「ミー」という単語は英語なのに、難しい会話では日本語をしゃべるのは突っ込んではいけない謎でした。

大谷選手はもはや世界の大スター。羽生弓弦さんもそうですが、大スターになっても決して驕らず、謙虚に徹する姿は清々しくて見ていてとても気持ちがいい。

さて、明日は私もお休みなので、しっかり決勝戦を見届けたいと思います。友人は仕事をしながらアマゾンプライムで見ると言っていますが、サッカーの時に本田の解説が面白いのでabemaにつないだら、回線が込み合って全く繋がりませんでした。たぶん明日も同じ状況なのではないかしらん。

それにしても侍ジャパン。みんな少年が大人になって野球を楽しんでいるように見えて、見ているこちらも草野球応援のように歓声をあげながら応援したくなります。

あの時に言わなくて未だに後悔していること

私の家の近くには割と大きな保育園があります。今でもその保育園の前を通ると「あの時になぜ言わなかったんだろう」と後悔することがあります。

それはお迎えの保護者がパラパラとやってくる夕方過ぎのこと。70代後半と思われる、絵に描いたような白髪頭のおばあさんが声高にふたりのお母さんに向かって怒鳴りつけていました。

その三人のそばを通り過ぎる時に聞こえてきたのは

「こんなところに子どもを預けて!自分の子どもくらい自分で育てなさい!」という声でした。

ふたりのお母さんは困ったように下を向いていました。私はそのおばあさんに言ってやろうかどうしようか迷って、言うタイミングを失って通り過ぎてしまったことを今も後悔しています。

「このお母さんたちが働いているからアンタは年金をもらえてるんですっ!そんなことを言うんだったら、今すぐ役所に行って自分は年金はいらないからと言って来い!」

我が母も「子ども子どもって子どもにばっかりお金をばらまいて、あたしらの時はそんなお金がなくてもちゃんと自分で子どもを育てたもんだ」と言ってる。

母よ。あなたが子育てをしたのは60年以上前のこと。時代は大きく変わる。60年前は便利な家電も車もなかったでしょ。高校を卒業したら働くのが当たりまえ、中卒で働いていた人もいたでしょ。

それと現代を同等に置くのがおかしい。昔はお父さんひとりの稼ぎで一家が食べられたけれど、今は低賃金の夫婦がふたりで働いてなんとかなる時代。ひとりが倒れたらアウトだ。

昔は近所の婆ちゃんが子どもの面倒をみてくれたかもしれないけれど、今はそんなことはできない。保育園に6時過ぎまでしっかりと預けて働かないといけないんです。

「子どもを預けて楽をしている」わけではなく、「子どもを預けて税金を納めて社会を回している」んです。

あの婆ちゃんにはわからない理屈かもしれないけれど。

高齢者施設で働く人がいなくなった理由

コロナが一般的な伝染病になってきたので、超久しぶりに母の施設に行きました。今までは施設の中に入って何かあったら困るので、会うのはいつも外でした。

それなりに差し入れた手作り惣菜などを一緒に食べていたら、話好きの母が「介護の人たちがごっそり辞めたんだよ。何があったんだろうね」と言います。

ごっそりといなくなったのは何かあったに違いないだろう。高齢者施設は何しろ人がいつかないところだけど、ごっそりとやめたとなると、たぶんみんな団結して辞めたんだろう。人手が足りなくて困っているだろうと思っていたら母が「そのせいだかなんだか、食事のトレイの箸が3本だったり、1本だったり、めちゃめちゃ。この間はいつも怒っているおじいさんが大きな声で叱りつけてたわ」

わ、目に見える。

「そんなことをするからみんな辞めるのよ。給料は安いし、じいさんばあさんは口うるさいし、細かいしだから」と言ったら

「箸2本を並べるなんて大したことじゃないじゃないか。こんなミスしてって、みんな言ってる」

ミスだって。母はこちらにきてから英単語が増えた。この間は「ディサービスがハードで」と言っていた。ハードだって。きっと周りの人たちが言っているんだろう。

90歳を過ぎても進化ってあるんだなと思いながら、これだから高齢者施設には人が来ないんだわとしみじみ感じていました。

思い出が終わる時

東京に来たのは2009年の3月からですが、その前に準備のために何度か訪れていました。2月のある暖かな日、自転車10分ほどのところにあるパン屋さんに行きました。たくさん種類があって、トレイに自分の好きなパンを置いて会計する形式のパン屋さんです。

そのパン屋さんの出入り口はテラスになっていて、買ったパンをそこで食べることができ、50円ほどの安い値段でちゃんと抽出されたコーヒーも飲めます。

ぽかぽかと暖かな昼下がり、サンシェードにうすぼんやりと映ったお日様を見上げ、「幸せだなぁ」とつぶやきました。

故郷は今頃小雪がちらついているか吹雪か、毎日グレーの空の下でみんな「さむさむ~」と言いながら過ごしているだろうに、私はこんなにさんさんと太陽の下でアンドーナツを食べている。

「幸せだなぁ」とひとかじりしたアンドーナツは私の好きな粒あんではなくこしあんだけど、からりと揚がった皮にまとわりついたグラニュー糖が、じゃりじゃりと口の中で擦れ合いながら、アンコと皮と混じり合いながら喉を下っていく。

そのパン屋さんが日曜で閉店になりました。コロナ以降、あちこち閉店になることが多くなりましたが、松屋とこのパン屋さんは私の「東京への第一歩」の象徴のようなものでしたから、寂しいものがあります。

こうやって時が過ぎ、いろいろなものが変わっていくんだ。それは仕方のないことなんだ。

そうは思っても、思い出フェチの私としては、またあの時と同じようにアンドーナツを買って、テラスに腰掛け、あの時のことを思いながら、グラニュー糖まみれのアンドーナツにかじりつくのです。

陽のあたる部屋は暖房いらず

我が家のリビングは南向きにベランダがあります。ここには今お正月の定番、葉ボタンとパンジーの寄せ植えと3種の色のゼラニウム、南天とパンジーの寄せ植えの鉢があります。(万年青は室内に避難中)

そして去年100円で買ったキンギョソウがいったん全部花が落ちて葉だけになったものの、また新しい芽が復活し、黄色い花を咲かそうとしています。

1月の厳寒期ですが、このリビングには日中は暖房を入れていません。確かに朝晩は寒いのですが、朝は日が昇る時間になると春のように暖かくなるのでエアコンは切ってしまい、夜はすこし寒いのですが、去年買ったこの充電式湯たんぽに足を突っ込むと充分暖かい。

これにひざ掛けをかけるともう他の暖房器具はいりません。11月分~12月の電気料金がクレジットに上がってきていますが、3,400円でした。本格的に寒くなってきたのが12月からなので、2月請求分の電気代を見なければならないのですが、たぶんそれほど高くならないのではないかと思っています。

これはひとえにこの鉄筋コンクリートでできた建物が、昼間の暖気を閉じ込めて、それが長時間部屋を保っているからではないかと思います。

では夏は暑いのかと言えばそれはなく、外の熱気を建物が防いでくれて、エアコンは必要ですがそこそこ涼しい。

夏の一番エアコンを使った時期の電気代は5,600円でした。寝室は寝ている間中エアコンをつけっぱなしにしていました。

大きな光熱水費高騰の元になるお風呂は、私は100%ジムで入るのでまったく影響がありません。本当に湯水のようにお湯を使って毎日洗髪しています。髪を乾かすドライヤーも電気代がかかるものですが、当然ここで乾かすので家での使用はありません。

80歳を過ぎたような高齢の方たちもジムを銭湯としているようで、体は動かさないけれど同じように毎日通われています。銭湯並みの大きな湯船が複数とサウナもあります。サウナには時々入ってじんわりと体を温めています。

ジムのお金は13,000円と安くはありませんが、もしうちでお風呂に入ることになったら、光熱水費が相当上がってしまうことになります。実際コロナでジムが閉鎖していた時は「え?」というくらい光熱水費が上がったので、お風呂は1日おきにしていました。

よく「光熱水費の高騰で」とニュースで聞きますが、我が家においては実感がありません。一人暮らしの光熱水費は1万円で足ります。

お部屋を選ぶときは南向きがやっぱりベストです。東向きだと午前中は明るいのですが、午後からすごく暗くなる部屋があります。西側に窓があると当然西日で暑くなります。

また、一番上の階にすると屋根の熱気が直接伝わってきますので夏は暑くなります。両端の部屋にすると同じように外気温を直接受けるので、暑くなったり寒くなったりします。

あまりないでしょうが、高層マンションは外に出るためにエレベーターを使わなければならず、そのエレベーターがなかなか来ないということで、外に出ることが億劫になってしまい、運動不足の原因になるそうです。

避難先のお部屋を決める時の参考にしてください。

探し物は何ですか?

ここのところ小さな災いが続いていました。一番は失くしもの。いつものことだとは思いつつ、失ったものがいつもは何気なくそこにあって、気にもとめていなくて、あるのが普通だったものが、ある日突然失ってしまったという喪失感。

長い間使っていたものがふたつ、突然行方不明になってしまいました。あらゆるバッグやポケットを探しても見つからず、もしやあそこでと思うところに電話をかけて聞いてみても、やっぱり見つからず、無くなって初めてわかるその物の存在の大きさを知るという、自責が延々と続くこの失くし物。

もしかしたら私は普通の人よりも物に対する執着心が強いかもしれません。捨てることもかなり一生懸命やらないと捨てられません。捨てたら捨てたで「あー清々した」となるのですが、捨てるまでの決心がなかなかつけられないのです。

この冬、いつも通っているちょっと長距離な場所へ自転車で走っていて、ふと「この道を行けば近道かも」という悪魔の囁きに負けて、行ってみたらとんでもない迷路。結局google mapを使ってようやくたどり着いたのは「この道を行けば」というスタート地点。

へなへなへな~となりながら目的地に向かおうとしたら、手袋が片方ありません。どこを探しても見つからず、時間も押していたので「帰りに時間があったら探そう」と目的地に行きました。

さて帰り道。時間があるので手袋の片方を探そうと思いました。

100均ショップで200円で売っていた手袋です。しかも2シーズン目。手袋はよく無くすので高いものは買わないと決め、100均でいいやと思っていたらこういう物に限って無くさない。今シーズンで捨てようと思っていたのですが、手袋の片方だけが無いという状態は、もう片方の手袋が寂しい思いをするのではないか(しない)、捨てるときは両方一緒に捨ててあげたいとか(どうでもいい)、どうも感情移入してしまい、探すことにしました。

ところが道に迷っていたので、どこをどう通ったのかわからず、とりあえず迷った時に目についたファミレスの看板名をGoogle mapに入力し、そこを目的地としました。なんとなく「あ~、ガストがあるな~」と心に刻んでいたのです。

そしてあの迷った道にやってきました。どこで落としたかわからない手袋の片方を探す(しかも100均の!)という、ナニやってんだかという気持ちですが、ここで見捨てて後から雨に濡れている片方の手袋のことを思うと、きっと後悔するな~、やるだけやったんだからという証拠だけ残したくての手袋探しです。

あるわけがないと思いながら、それでも歩道を目で探していくと、

「あったーーーーー!!!!」

ガードレールの脇にちょんと、落ち葉にまぎれながら、手袋が落ちていました。もう片方の手袋と同じ模様(当たり前だ)の、2シーズン使った100均の手袋。

「ありえない!奇跡だ!」と思いながら手袋を拾い上げ、ペアにしました。「よかったねー、相棒が帰ってきたよ~」と手袋をはめ、小躍りしたい気持ちで帰路につきました。

冬はあちこちに片方の手袋が落ちていて、それは持ち主が「あー、落としちゃったー」「失くしちゃったー」という、軽い気持ちで諦めている方が断然多いとは思いますが、私はどうも自分の物だったものが自分の手から離れていくことに寂しさがあるのです。なので海外旅行に行くときに「捨ててもいいような物を持って行って、向こうで使って捨ててくる」ということがどうしてもできません。お弁当に入っている魚の形の醤油入れさえ、海外では「同胞」。

「みずしま~!一緒に 日本に 帰ろ~~!!」(←ビルマの竪琴)

と言いながら日本に持ち帰って捨てるという、わけがわからない構造です。

いつも気にも留めずに自分のそばにあって、でも無くなると無性に愛おしい。しかも自分が注意深くしていれば避けられた事故なのに、全部自分の不注意のせいで失ってしまったという自責感。

失くしものは本当に探す時間の無駄です。ちなみに冒頭に書いたふたつの物は出てきました。一つは出先に電話したら「ありますよ~」との返答があり、もう一つは何度も探したはずのバッグのポケットに入っていました。

探し物は何ですか 見つけにくいものですか かばんの中も机の中も 探したけれどみつからないのに まだまだ探す気ですか  ~中略~ 探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で (by 井上陽水 「夢の中へ」)

いつもこの歌が頭をぐるぐるしています。

お勧め濡れマスク

乾燥して喉がイガイガひりひりする季節になりました。東京ではもう22日も雨が降らない日が続いています。更に寝室はエアコンも使うようになったので、部屋の乾燥度が上がりまくり。

加湿と一体型の空気清浄機があるリビングはまだいいのですが、ベッドのある北側の部屋にはクローゼットがあるのでカビの原因になる加湿はしたくない。

北側なので寝る前にエアコンはつけますが、部屋が狭すぎてあっという間に壁が暖かくなるので、10分ほどで切ってしまいます。それでも室内は乾燥はしているので何とかしたい。ということで、日中使っている不織布マスクを棄てずにお湯で濡らしたガーゼを挟んで使用してみたら、とっても楽になりました。

#老眼鏡が曇るのがデメリットか

これはいいわと、リビングにいる時も、要するに食事以外は全部マスクをするようになりました。外でするマスクは鬱陶しいですが、家で湿度を含んだガーゼをはさむと気持ちいい。

ガーゼは30分ほどでカラカラに乾いてしまいますが、しばらくはこの方法で喉を労わります。