壊れた母

長々と書いてきましたが、横暴だった父親が年を取ってから正気になり、定年になる頃はむしろ社会通念を知っていて、働いている子どもと話は合うし、アドバイスや協力もしてくれるようになったという話は時々聞きます。我が家もそうでした。

ところが壊れてしまった母は、もう元には戻らない。社会で生きていくための知識はなく、ひたすら昔の恨み言と父親の愚痴を言い、不満ばかりを垂れ流す困ったちゃんとして家族からも疎まれています。

こんなはずではなかったと思うでしょう。本来ならば自分が耐え忍んで守った家や子どもなのだから、全面的に自分に感謝し、自分の味方として夫と対峙してくれるはずだったのに、なぜか夫と仲良くしている。

面白くない。自分がいなければこの家は成り立たなかった、生活も、経済もすべて自分が耐えて堪えて、必死で守ってきたから今があるのに、なぜか子どもは自分に感謝せず、ひとりで大きくなったような顔をしている。

それでも家事ができている母はまだ家事労働者としての存在感はありましたが、子どもが独立したらそれも無くなって、ただの愚痴垂れ流しマシーンとなってしまいました。

今、モラハラ夫と共存している方に向けてこれを書いています。家や子どもを必死で守り抜いた後、子どもたちがこぞって感謝して今度は自分が守られると思っていると、足をすくわれることになります。

もちろん苦労した母を思い、その苦労に感謝し、定年後家にいてまだ横暴の限りを尽くしている父親から母を守っている子どもはとても沢山います。では、どこが違うのか。

守られる母は愚痴の垂れ流しなどはしません。ひたすら不満ばかり言い続けたりしません。精一杯自分の人生を生きようとしている母だから、かばいもするし感謝もする。義母がそうでした。

私の母よりもよっぽど苦労していましたが、その昔話はたまに聞くことはあっても頻繁ではない。いつも私のことを気遣ってくれて、何も言わなくても助けてくれました。もし義母が生きていたならば、介護もしたかもしれません。でも、義母は介護を望みはしなかったでしょう。そういう人だから感謝もできるし心からのいたわりもする。

そこが違うのだと思います。

一番の戦犯は誰だ

延々と母について書いてきましたが、では母は最初からこのような人だったかというと、そうではありませんでした。母が変わったのは父の転勤で別の土地に移ってからです。

それまでの記憶として母にいじめられたとか、ひどい言葉を投げつけられたとか、そういう記憶はありません。8歳までは両親から本当に愛されて育てられてきたと思います。

1年生の時に母が作ってくれたハモニカ袋には、母が得意だった刺繍でピンクの花がステッチされていました。その花模様は今も覚えています。

新しい土地に行き、父は仕事でパワハラに遭い、さらに「自分は秀才」というプライドと学歴がない劣等感でそのストレスを酒で紛らわすようになりました。

元々酒は強くない人で、いわゆる酒乱。飲んで帰ってきては泣きながら吠える吠える吠える。

ふとんの中で耳を塞いでいても、父の吠える声と、なだめる母の声は聞こえてきます。

夜7時を回っても父が帰って来なければ飲んでくるということ。母は小学生の私に会社に電話をかけるように言います。父が会社にまだいれば、家族がほっと胸をなでおろし、いなければまた飲んでくるのだと家中が暗くなり、厳戒態勢になります。父は会社で「7時の男」と言われていたそうです。

何度も夜親戚や電車で2時間の祖母の家の家に避難し、近所の旅館に泊まったこともありました。飲んでくるにはお金がいる。父が生活費を飲み代に使ってしまうせいで、いつも母からは「金食い虫」と言われ、母の機嫌が悪くなるのが怖くて「お金、ください」が言えない。

さらに住んでいたところが社宅で、近所は全部会社の人たち。学歴がないので一向に出世しない父。近所の奥様方とのヒエラルキーに、負けず嫌いの母が反応しないわけがない。

とにかく家を建ててここを出たい。家を建てるお金を作るため、子どもの学用品や着る物や食べるものには全部事業仕分けで避けられました。

一番の戦犯は父です。これはもう間違いない。会社でパワハラに遭っても、秀才なのに学歴がないために出世できなくても、そのストレスを家に持ち込んだのは父の甘さです。家族への甘えです。

#パワハラに遭っていたら、外で酒を飲んで家族にあたってうさを晴らしてもいいのかと思う。私もパワハラに遭ったけど自分でなんとかしたぞ。子どもに当たり散らすなんてしなかったぞ。

ひたすら父のプライドの高さが母を壊し、子どもたちは機能不全の家庭で育ったACとなりました。

ところが父が50歳を過ぎた頃、父曰く「なんだかつきものが落ちたようにすっきりした」のだそうです。もしかしたらパワハラの原因が無くなったのかもしれません。

それからは酒は宴会などでたしなむ程度。酒さえ飲まなければ良い父親ですし、単身赴任で週末しか帰って来なくなったこともあり、家には平和が戻ってきました。

でも、壊れた母は変わらない。「自分は世界で一番不幸」という被害者意識だけを大量に抱え込み、家族の中でいつ爆発するかわからない困ったちゃんになりました。

母はもうどうでもいい

こちらの続きです。

もう母親に対しては恨みがあるとか、愛して欲しかったとかそういう気持はまったくありません。彼女は彼女なりの気持ちで娘を育ててきたと思います。ただ、彼女は「嘗めるように娘をかわいがってきた」と思い込んでいるでしょうから、実際にしてきた子育てと私の気持ちとの間に相当の乖離があり、それを塞ぐことは無理だと思っています。

それを実現させるには

「彼女にはその能力がない」

それにつきると思います。

能力のない者にそれを求めても無駄。ちょうど精神障碍者は罪を負わせないと同じ感じです。本人に自覚がないのに罪を償えと言っても、言っている意味がわからないのだから、言うだけむなしいという気持です。もう、アホらしいというか。

信田さんは昔からACについて、沢山の本をお書きになってきました。それまで「どんな親でも子どもを愛している」「親に孝行しろ」という大合唱に、正面から「子どもを愛せない親は確実にいる」さらに、「その数は世間が思っているよりもずっと多い」とも提唱してきてくださっています。

この記事では、5月6日に放送されたクロ現プラス「親を棄ててもいいですか」になぜ出演されたかも書かれています。

NHKクロ現プラスの中で、若くてきれいな女性アナウンサーが「例えば親が死ぬ時に立ち会うことによって、今までの経験を整理して、次への一歩を踏み出すきっかけになるのではないでしょうか」と言った時、思わずいらっとしました。

#あなたはきっと母親に愛されてきたんでしょ

#NHKのアナウンサーになるくらいだから、何の不自由もなく好きな学校に行けて、暖かい家庭で育ったんでしょ

このアナウンサーの言葉はこの回の冒頭、親が死んだ時に出棺に立ち会わず、代行業者を使った人に対する言葉です。

「せめて親が死んだときぐらい、立ち会えよ」という世間一般の、常識という無邪気な悪意に満ちた言葉を発しました。

それに対して間髪入れず信田さんが「そうなったらいいですよね。でも、ドラマみたいに行かないんですよ」と言いました。

きっとこの女性アナウンサーの頭の中は「???」だったでしょう。

それくらい、親に愛されてきた人とそうでなかった人には大きな隔たりがあります。

この記事の中で信田さんは「親に謝って欲しいのです」と書かれていますが、私はとうにその気持ちはありません。理由は最初に書いた通り、意味のわからない謝罪をされたところで嬉しくもなんともない。今そんなことを言ったら「ナニ企んでるの?」としか思えない。

親に謝って欲しいと思っている方は、まだまだ道半ばな方なんだろうなと思います。

私は別に親を棄てたいとは思っていません。ただ、その親が私や私の家族(子ども)の平和を脅かそうとする行動に出たら、一気に排除します。母はもう私に家族の一員ではなく、遠いお星さまの居住人。そこからインベーダーとしてやってくるなら、地球防衛軍として断固侵入を阻止します。

遠足の敷物

こちらの続きです。

私は小学2年生の途中で父の仕事の関係で県をまたいで引っ越し、転校しました。県によって風土や文化が変わるもので、引っ越す前の件は質素倹約がモットーの県でしたが、引っ越し先は見栄っ張りの派手な県でした。

「遠足に行くから座る時に敷く敷物がいる」と母に言うと、「ほらっ」と言って渡されたのは父のスーツをクリーニングに出して、戻った時に包んでいる透明なビニール袋でした。

そのビニール袋を持って遠足に行き、お尻の下に敷くと、セツコちゃんから「さっちゃんちも生活保護もらったら?」と言われました。

#母が「かわいそうな貧乏な家の子」と言っていたセツコちゃんからそう言われたと知ったら、どう思うんだろう。いまだに言っていないけど。

確かに私はうっかりが多く、きちんとしているとは言い難いのですが、それでもなにぶん女の子なので、傷つくことは多かったです。

筆箱を壊してしまった時は、「お前は物を大事にしない」と言われ、父が数十年前に使っていたセルロイドの筆箱を渡されました。肌色に変な模様が入り、あちこち割れて中が見える筆箱でした。

それをずっと長い間使っていましたが、今度は手動鉛筆削りを壊してしまいました。再び「何でも買ってもらえると思うな」と言われ、小刀を渡され、それで鉛筆を削るようにと言われました。

弟はいつも最新式の文房具を買ってもらえているので、電動の鉛筆削りを持っているのですが、それは借りてはならないと言い渡されているので、不器用な手で鉛筆を削っていました。初めて小刀で鉛筆を削ったので、本当に不格好な鉛筆でした。

母は学校でみんながどんな物を使っているか、どんな生活様式なのかまったくリサーチしていないので、私の身の回りは「戦後の混乱期」がベースとなっていました。もっともわかっていても「よそはよそ!うちはうち!」と言ったでしょうが。

「よそはよそ!うちはうち!」↓

#でも、弟が最新式だったのはなぜなんでしょう。

#跡取り息子だから?

#老後に面倒をみてもらうから?

私は相談員として様々なご相談を受けてきましたが、相続争いは男女(兄妹、姉弟)で起こることが多かったのは、こんな事情があると思っています。

指を入れるはさみが欲しかった

欲しかったのはハサミでした。学校では文房具入れの中にハサミを入れなければならないのですが、中指と親指を入れて使うタイプのハサミを私は買ってもらえませんでした。

先生から「文房具を入れる袋を作って持って来なさい」と言われ、母にそのように伝えたのですが、おそらく何か母を怒らす出来事があったのか、鬼のような顔をした母が茶箪笥の引き出しを開けて引っ張り出し「ほらっ!」と投げつけてきたのは、テロテロした裏地がぐちゃぐちゃにシワになり、2センチほどの縫い目で3方、これまたぐちゃぐちゃに縫ってある袋でした。

長方形の一辺は縫っていませんが、断ち切りですから、ほつれてぼさぼさになっていました。

「みなさん、文房具入れは持ってきましたか?」と先生が言い、「はーい!」と言ってみんなが手に文房具入れを持って掲げた中に、そのぐちゃぐちゃの袋もありました。先生は嫌な顔をしてその文房具入れを見て、何も言いませんでした。

私はともかく女性の先生に嫌われました。たぶん整容検査のたびにハンカチは忘れているし、チリ紙も持っていない。(ハンカチは買ってもらえないし、チリ紙は家から持ち出すのを忘れているし)

ともかくきちんとしていないので、女性の先生は嫌だったんだろうなと思います。

その文房具入れの中にはハサミを入れなければならないのですが、母に「ハサミがいる」と言うと、また「ほらっ!」と言って放ってきたのは、裁縫で使う、いわゆる糸切ばさみでした。みんなが持っているような中指と親指を入れて使うハサミが欲しいのですが、それを言えばまた「金食い虫!」と、怒鳴られるので言い出せませんでした。

文房具として使うはさみが手に入ったのはいつの頃だったか。おそらく弟が使うようになり、母は初めて、学校では文房具として糸切りはさみは使わないのだと知った時かもしれません。弟に「学校で使うはさみはこれだ」と言われて弟に買い、そのおこぼれで買ってもらったのかもしれません。

母は思いっきり戦中に少女時代を過ごしていますので、物の価値観がそこでストップしているものがとても多いのです。

「お弁当に卵を入れてもらえるのはあんただけだよ」と言って、卵焼きとたくあんのお弁当を渡されても、すでに戦後20年以上経っていて、他の同級生が色とりどりのお弁当を持ってきている中、黄色と白のツートンのお弁当は、なかなかシュールでした。

それでも母は「お弁当を持たせてもらえるなんて、あんたは恵まれているんだから。貧乏な家の子は麦ご飯でおかずは梅干しだけなんだから」と言っていました。

母がいつも「かわいそうな家の子」と言っている生活保護家庭のセツコちゃんのお弁当が、麦ごはんでもアワでもヒエでもなく、他の子と同様のきれいなお弁当なのだとは、母は今でも知らないままなのだろうと思います。

マシュウとふくらんだ袖

「赤毛のアン」が好きすぎて、12年前、ついにプリンスエドワード島(以後PEI)に2週間滞在した私。写真はその時に撮った、グリンケイブルズのアンの部屋にあった「ふくらんだ袖の服」です。

私たちの世代は「赤毛のアン」は女の子の必読書だったものですが、今はそうではないようで、アニメで見たか、それすら見ていない方が多いようです。

同世代が集まって「『赤毛のアン』のどの章が好きか」と話をしたことがありました。ミニーメイの喉頭炎を一晩中かけて治す章や、香料と湿布薬を間違えてケーキに入れた章など、それぞれにアンに対する思いがありましたが、私は何といっても「マシュウとふくらんだ袖」の話が好きです。もう泣きたいくらい好きなのは、私も同様の経験をしたからかもしれません。

私が高校生だった頃、父は上場企業の社員だったにも関わらず家は貧乏で、母にお金を出してもらう時には決死の覚悟で言ったものでした。

「金食い虫」「あんたのせいでお金がない」「いつもいつもビリッビリッと人の財布を開けさせる!」と般若の顔で怒鳴りつけられるのが常でしたから、とにかく額の多少、内容にかかわらず母からお金をもらうのが本当に苦痛でした。

そんな家でしたから、服も買ってもらえない。人間不思議なもので、買ってもらえないとわかっていると欲しいという気持も無くなるものです。

「この子はあんまり欲しがらない子で」と母は自慢げに人に語っていましたが、いや、それ、欲しがらないんじゃなく、この状態では欲求すら無くなるという、人間の心理上あまりよろしくない結果なんですが。

ある日ある時、父がふと「お前、なんでいつも同じ服を着ているんだ?」と聞いてきたことがありました。

「ないから」

「ないって?」

「他に着るものがないから」

と私が言うと、父は「なにーーーー!」といきなり立ち上がり、二階へ疾走しました。二階の私の部屋にある箪笥の引き出しを次々と開けますが、下着しかない。

#当たり前だ。買ってもらえないんだもの。夏冬休みにするバイト代は1年間の私の学用品や本や大好きだった映画代に消えるから、服を買うお金はない。

血相を変えて二階に上がった父を追いかけて、母もやってくると

「なんで服を買ってやらないんだ!女の子には借金しても服を買ってやるものだ!!」と怒鳴りつけました。

翌日、プリプリと怒った母は私を連れて服を買いに行きました。

「本当にお父さんったら、自分は好き勝手にお金を使うくせに」と父を罵りながら歩く母の後についていきながら、この原因を作ってしまった私はひたすら小さくなる。

お店について「ほら、好きなのを選びなさい」と言われても、そんなことをした経験もなく、とにかく母をこれ以上怒らせないために、服ではなく値段を見ながら一番安いものを選んでいると「値段なんか見ないの!」とまた怒られる。

買ったのは毛100%のセーターでした。袖にこげ茶とベージュの縞が入っていて、ちょっと肩にふくらみがあってかわいらしかったのを覚えています。

ところが毛100%の洗い方がよくわからず、すぐに縮んでぱっつんぱっつんになってしまいました。それでも外出の時にはそれを着て行きました。何しろ他に着るものがなかったので。

母は「赤毛のアン」のマリラと同じように「教育上子どもには華美な服を着せてはいけない」とでも思っていたのでしょうか。いやいや、母は外出の時は制服があるから十分と思っていたと思います。普段着もジャージがあるから十分。とにかく子どもにはお金を使いたくない。

その制服も、下に白のワイシャツを着るのですが、それも母がどこからかもらってきたワイシャツで、なぜか袖にボタンがありませんでした。後からあれはカフスボタンで留めるタイプのものだったんだなぁとわかりましたが、ともかく当時は冬でも袖をまくって着ていました。夏になると堂々と袖をまくれるのが嬉しかったものでした。

それにしても娘が奇妙な格好をしていることに気づいたのは、一番身近な同性であるマリラや母ではなく、おしゃれにまったく縁のないマシュウや父であったことが象徴的です。娘が他の子とは違う格好をしている、みすぼらしい格好をしていることに鈍感だった同性の親。

母は「欲しがらないから買わなかった」と言うかもしれませんが、欲しがったら怒鳴りつけられて、そのあげく買ってはもらえないのはわかっていますから言えるはずがない。アンは何度も「ふくらんだ袖の服が欲しい」と訴えましたが、「質素が一番」と思っているマリラには通じませんでした。

クリスマスの朝、アンが欲しかった「ふくらんだ袖」のドレスを見た時、どんなに嬉しかったことか!

私もアンと同じように「ふくらんだ袖」や「レースがついている服」を着てみたいと思っていました。だからアンと同じ気持ちになれる「マシュウとふくらんだ袖」の章が、愛おしいほどに好きなのです。

そして今、母から「白い七分袖のカーディガンを送って欲しい」と言われています。

送りますよ、しまむらで買って。はいはい。

会いたいよりも見栄

今回はご好評?の母ネタです。

緊急事態宣言が継続し、母と面会できない口実も継続しています。とりあえず週1度、20秒の電話をしているのですが、母はそのたびに「会いたい」と言います。

コロナが始まった頃、母が「会いたい」と言うので、「高齢者施設に入っている人は外出しないで、面会せずにリモートでって国が言ってるでしょ」と言ったら、「ううん、それは建前でさ、どこの家もみんな来ているよ」と言う。

#総理大臣様、厚労省担当者様、自治体知事様。施設でクラスターが発生するのはこのような状況のためでございます。

「そういう人はバカなの」

「ええ?」

「そういう人たちはバカなの」

「・・・・」

これだけ高齢者はコロナにかかったら危険と言われている中で、面会に行ったらマズイだろうと思う。

3月に「これが最後の花見になるかもしれない」と思って、母を施設の近所の桜を見せに連れ出しましたけど、その後2週間気が気でありませんでした。これが原因で施設内でクラスターになってしまったらどうお詫びをしたらよいかわからない。

「それは建前で、みんな来ている」って言うけれど、私が子どもだった頃、「学校ではダメと言われているけどみんなやっている」と言えば「絶対にダメ」って言っていたあなた。「先生の言うことはちゃんときかないとダメ」と言っていたあなた。

自分の段になって「それは建前で」と言うか。

「どこの家もみんな来ている」というけれど、「みんな」ではなかろう。やっぱり何かあったらと思う人は多いだろう。自分の親だけではない、施設全体が大騒動になり、死人も出ることになることをやるのだから、相当の覚悟がいる。

母が「会いたい」と言うのは単に会いたいからというわけではありません。施設内に面会の人が来て、「これ、子どもが持ってきたの」と見せられて、負けず嫌いの母の闘争心に火がつかないわけがない。人がニコニコする(母は自慢ととる)のが面白くないのです。

とりあえず時々それっぽいものを送って「これ、娘が送ってきたの」と見せびらかすネタは差し入れていますが、いやいや、私って本当にいい娘だと心の底から思います。

三世代同居の秘策

東京に来て周りを見渡しても、相談に来られる方の話を伺っても、三世代同居の方はあまりいらっしゃいません。同居の場合も都会での三世代同居はほとん1階と2階で分けていたり、玄関から別だったりする2世帯住宅です。地方にあるように、水回りもすべて一緒、完全同居の形はあまり見受けません。

私は結婚するときに「親と同居」を求められました。その頃、同僚も友人たちも同居する人が多かったので、それを何とも思わずに受け入れましたが、変人の義父から「お前ら親を利用しようと思っているのか」と断られたので、むしろそのお断りをありがたくいただきました。

相談員をしていたしていた時に、義両親との付き合い方のお話をとても少ない数ですが伺いました。とにかくすべてに過干渉であると。それでも遠距離の場合は離れている分深刻度は高くありませんが、近場にいるとそういうわけにもいきません。

仕事をしているといつもは保育園なのでいいけれど、子どもが病気をした時などは頼らざるを得ない、だから決定的に決別するわけにもいかない。そして義理とはいえ夫の両親なのだから大切にしなければいけないという思いもある。

私はこういうお悩みのお話には私の郷里の話をします。

私が元働いていた職場は、女性が結婚しても子どもが生まれても離職することがない所でした。そしてんな結婚すると多くは三世代同居をしました。共働きで夫婦収入を合わせると、かなりの額の保育料がかかります。2人、3人子どもがいると「保育料のために働いているようだ」と同居していない人たちはため息をつきます。

それが同居だと必要ないし、子どもが病気で幼稚園を休むなどの時にも即座に対応できます。なにより義両親が「かあさんは稼いで金とってこい。子どもは見てやる」と言ってくれるので、お言葉に甘えてそのようにしています。

それゆえ三世代同居の同僚たちは時間を気にせずゆったりと仕事をし、時にはしなくてもいい事や効率を全く考えない仕事をして残業代を稼いでいました。「早く帰るとご飯の支度を手伝わなきゃいけないからさ」と、ランチの時には言っていました。

とは言え、やっぱり文化や時代が違う義両親との生活は苦痛の方が多く、下の子どもが小学校に入るやいなや、まず妻が家を出て、夫がそれを追いかけて出るということが始まります。そして少しの間アパート暮らしをして、次に家を建てる。夫は本宅と愛人宅を行き来するように妻がいる家と実家とを往復します。たぶん実家の親に不満やイヤミを言われながら。

これが多く家で行われるので、私も何とも思っていませんでした。子どもが大きくなったら同居は解消するのがごくごく普通だったのです。

#よもや介護を放棄して家を出るとは思っていなかった義両親の憤りやいかに

もちろん義両親と仲良く暮らしてずっと住み続ける人も、少数ながらいましたが。だから私の元義父が「親を利用しようとして」というのも、あながち誤解だというわけでもなく、おそらく元義父は知り合いの家がその状態なのを知って同居を断ったのかもしれません。

「私の故郷では『子どもが小さい時は面倒をみてもらう。その後は疎遠になる』が普通なのよ」と相談者の方にお伝えすると、「へー、そうなんですか」と仰り、かなり罪悪感が軽減されるようでした。

今私は孫がいてもいい年ごろになり、もし子どもが子育ての助けを求めてきたら、喜んで受けると思います。もちろん介護目当てではありません。あのぷくぷくとして手に触って、柔らかな体を抱くことができたら、それは本当にありがたいだけです。(毎日24時間は困るけど。たまに数時間ならというわがままな夢)

私の体が動かなくなった時のことは、もう考えてあるので、当然一緒に住んでもらっての介護はありえません。私だって母を施設に入居させているのだから。母が変なのは、自分は義両親も実親と同居したことも通って介護したこともなく、きょうだいの配偶者におまかせだったのに、なぜか自分は子どもの家族と同居して介護してもらえると思い込んでいたことです。不思議やね。。

子どもと同居すれば当然老後は安泰と思っていた世代の方は、厳しい世の中になったと思って、自衛していただきましょう。

何でも時代を先読みするのが大事ヨ。

更年期さまざま

私の周りで更年期の悩みを聞くことが多いです。その症状は様々で、ひどい人になると仕事を辞めなくてはならなくなった方もいました。

更年期障害は閉経前後10年で現れるものですが、実は私はこの障害がまったくありませんでした。ちなみに子どもの反抗期を体験したことのない方は、子育ての辛さの何パーセントかを味わうことなく過ごした幸せな方だと思います。私は更年期障害がない幸せな人です。

反抗期のなかった子どもは後から反動が来るとか、それ自体が問題だという人もいますが、私の周りに限って言えば、反抗期なく育っても、何ら問題なく人生を送っている人も結構います。

私は反抗期がなかった人というのは、親からの抑圧がものすごくて反抗できなかったか、反抗する理由がなかったからではないかと思っています。親子関係がものすごくうまくいっていて、意思の疎通もスムーズ、親からの無理な抑圧もない場合は、反抗する理由がない。

「それっぽいものはあったけど、1週間くらいだったかな」という人もいました。

さて最初の更年期障害ですが、私はまったくその症状がなかったので、苦しい更年期障害を経験しておらず、何も言えません。「まったくないんだよねー」と同僚に言ったら「貧乏に更年期なしって言うよ」と言われました。

#うう、当たりすぎていて何も返せない

#生活するのに夢中で、自分の体に変化を気にすることもできなかったかもしれない。

ともかくとても生活に大変だった頃と更年期の時期がぴったり重なったので、この言い伝えはありかなと思っています。

今更年期でモラハラ渦中にある方は、とにかく自分の体優先にして(難しいかもしれませんが)、専門病院に行くなどしてくださいね。

母の失敗

こちらの続きです。私は旅については準備が好きですが、その他はそうでもない。でも、今日準備できるなら今日のうちにしておきたいなと思います。間違っても本番当日の朝に準備なんてことはない(と思いたい)

この強迫神経症的なものは、まず母からの教育によるものに間違いありません。母は完全に強迫性障害です。常に何か不安を抱えていて、いつも震えている。

電車に乗るときは30分前にホームに行かなければ気が済まない。駅に行かなければではなく、ホームに立っていなければならない、です。

母と最期に新幹線に乗ったのは一昨年でしたが、「まだ時間はたっぷりあるから、お茶でも飲んでいよう」と言うと、「そんな危ないことはできない。ホームに行く」と言います。「まだ30分もあるよぉ、大丈夫だよぉ」と言っても、「もしものことがあるでしょ。何か急に起きたら乗り遅れたら大変」だから、切符を自分に寄こせと言う。私が切符を持っているのが不安というのも一因らしい。

#あー、これは言い訳ができない。そりゃそうだ(笑

切符を母に渡し、勝手にひとりで行かせました。そのとたん、母は「お前が遅れてひとりになったらどうしよう」です。

私は新幹線に遅れたら指定席はフイになるけど次の便に乗り換えができるのは知っていますから、遅れたら遅れたでいいやと思うし、もし母とはぐれたら、駅でその新幹線に連絡してもらい、わかりやすいところで落ち合うことが可能です。できたら駅で保護しておいてもらえたらいいかなぁ。

母は携帯を持っていないので(一度買って持たせたけど結局使えなかった)、こういう時に困るよねと、再度携帯を持たせる口実になります。

ともかく発車の30分前に母は寒いホームで立ったまま新幹線を待っていました。

私はと言えば、母の強迫性障害につきあう気はさらさらなく、もう故郷に来ることはしばらくないでしょうから、友だちへのお土産を物色です。

私は準備は余裕をもってしますが、なぜか時間はいつもギリギリなんですね。これは何もしていない時間がもったいないという、ケチ心からです。「時間が余ったら、ゆっくりカフェでお茶」なんてものは、相手があれば別ですが、ひとりではまずしない。ギリギリの時間を使って何かしています。

新幹線に乗り込むのは3分前です。母のイライラは沸点に。

こんな風に何でも余裕を持って動いている母なのに、老後だけはまったく準備していませんでした。ただ、老人会などで「家の中のものを沢山残しておくと子どもが困るので整理しましょう」と言われていたらしく、ありがたいことにそれほど大きな家財はありませんでした。これは助かりました。

ただ、自分は子どもの世話になる(私か弟のどちらかと住む)という希望だけは最後まで捨てず、今もその望みは捨て去っていません。

母は自分の親がそうだったように、子どもやその配偶者を自分の思うようにあごで使い(本人は教育しているつもり)、上げ膳据え膳の女王生活をするつもりでした。世の中の動きにまったく無頓着だったというよりも、わけがわからなくなったらいい方に考えるという人間の心理そのものだったのです。

#あ、これ、今のコロナ対応をしている日本政府と同じ