考え方をちょっとひねってみる

子どもから教育に関するちょっと厳しい金額の要求があった時、少し愚痴っぽく心理職の友人にこぼしたことがあります。

「出して出せないわけじゃないけどさぁ、今、厳しいんだよね」(私)

「子どもの将来に関わることに(お金を)だせる親であるって素敵なことね」(友人)

あ、そうか。ちょっと厳しいけれど出せないわけではない。子どものためにお金を出せる親であることに誇りを持っていいんだ。子どもが頼れる親であることに自信を持っていいんだ。

そういえば学校を卒業してから子どもからは遊ぶお金をせびられたことはありません。学校にいるときも必要経費は要求したけれど、それ以外を要求されることはありませんでした。

おそらく子どもたちは周りの人たちから「母子家庭でお母さんは大変なんだから」と言われていたと思います。遊ぶお金の無心ではなく、自分の将来のために勉強するお金ですから、私は喜んでお金を出そうと思いました。

物は考えようです。渋々「あー、また節約生活をするのかー」と思うより、がんばって働いて子どもがそのお金で勉強できるなら、その力を持っている私は素敵なことなんだろうなと思うのです。

自己肯定感と楽な生き方

「自己肯定感」とは理想の自分という円と、現実の自分という円の2つがどの程度重なっているかで決まります。円の重なる部分の面積が大きいほど自己肯定感が高くなります。

なりたい自分と現実の自分の隔たりが大きいと円の重なりは小さくなり、自己肯定感は低くなり、「自分はダメな人間だ」ということになります。もちろんこういう自分になりたいと理想を高く持つことは悪いことではありませんが、非現実的な高すぎる理想を持つと生きづらくなります。

理想を下げることによって生きやすくなるなら、そちらの方がお手軽に楽に生きられますね。

というと「それでいいのか!?」と、まじめな自分から叱られそうですが、いいの。もう後平均寿命まで20年とかになると、大体てきとーでいいが身についてしまっているから。そもそも理想の自分なんてものはありませんから。

ひとつの扉を閉めたとき、新しい扉が開く

物を増やさないよう、ひとつ買ったら必ずひとつ捨てることにしているという人はいますが、私はどうしてもこれができません。物に愛着を持ってしまうので、「これはあそこに行った時に買ったもの」「まだ使えるからもったいない」と物を増やしてしまいます。

ひとつ捨てなければ、新しいものは買わないとしてしまえば、物が捨てられるようになるのでしょうか。

「神はひとつの扉を閉めるとき、もうひとつの扉をひらく」というのは聖書だったかと思っていましたが、ブラジルの格言だそうです。

今いる扉を閉めなければ、次の扉は開くことはない。

断捨離はともかく、今あるものを捨てなければ新しい生活は手に入りません。新しい生活を手にしようと思うなら、古い生活と決別しなければなりません。両方は手にはいらないのです。

古い生活に愛着を持つのは当然ですし、新しい未知の世界が見えない以上、とりあえず持っておこうとすることもわからないわけではありません。

私は物は捨てられないのですが、ライフチェンジは物を捨てるよりは容易に決断できたように思います。何かに押されるように、次に行かなければ何も生まれないという経験則があるからかもしれません。

ヘレンケラーは「ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない」という言葉を残しています。

これは得たものよりも失ったものの方が大きな損失と考える、人間の損失回避性という心理傾向のせいかもしれません。

失ったものに目を奪われず、残されたもの、次に現れる(かもしれない)ものに目を向ける。

明日から令和5年度が始まりますが、来年の今日のために心しておきたいことです。

ダーウィンの言葉に深く共感する

ダーウィンと言えば進化論。また、ビーグル号で南半球を航海し、ガラパゴス諸島を訪れた経験などをもとに「種の起源」を書き上げました。

そのダーウィンの残した言葉に深く共感しました。

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。」

この世を生き延びるには変化が必要。昔はこれでよかったことも、今では通用しないことも多い。昔はよかったと嘆息するよりも、とにかく変化に柔軟に対応することが必要です。

世の中の変化は予想を超え、速さが尋常で無くなってきています。本当に困った世の中になったもんです。

あ~あ、年をとったら友だちとお茶飲みながら日向ぼっこできた昔が恋しい。

いっそ山奥のぽつんと一軒家にでも移り住んだ方が、精神的にいいかもしれません。

韜晦(とうかい)ってなんだ?

とある本を読んでいたら「彼は韜晦を装うこともあった」とありました。

韜晦ってなんだ?そもそもどう読むんだと思ってググると「とう‐かいとは1 自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。2身を隠すこと。姿をくらますこと。」出典:goo辞書「韜晦 意味」とあります。

どうも本の文脈からいって、この場合は1のようです。

なるほど、要するに水戸黄門ですねー。

自分の身分を隠してただの老いぼれた爺さんと思わせ、土壇場になって印籠を突き出して「控えおろー、この方を誰だと思っておる」というあれ。

自分は本当はできるんだけどできないふりをしている人っていますからね。

これを奥ゆかしいととるか嫌らしいととるかは場面によって異なるでしょう。

ある時外国人が困っていて、片言しかできない人がさもすごくできますよ風に話しかけて、でもそれほどできないので結局わからなくなって困ってしまったら、そばで見ていた人が流ちょうな英語で話しかけました。

問題解決の後、最初に話しかけた人は後からの人に「できるんだったら最初から言ったらいいじゃないですか」と怒ってしまいました。バカにされたと思ったのかもしれません。

でも、後から話しかけた人は「自分が行かなくても他の人ができるなら特に自分は出る必要はない」と思っていたのかもしれません。

これは場面を読んで、「必要なら行くけど、必要ないなら黙っている」という行動だと思うのです。大体このような場面で自信ありげな人というのは実際はそれほどの能力はなく、そばで何も言わない人の方はすごい能力があったりします。

私はどこから見ても普通のもったりしたおばちゃんですが、普通のおばちゃんよりもちょっぴり機械ものが触れます。どうやら男性たちはおばちゃんは全員ITが苦手と思っているらしく、とうとうとPCの使い方などを教えて下さる方がいます。

「それ、全部知ってますけど」とも言えず、「はい、はい」と伺っていて、相手が「だからここをね」と触って動ない事態になり「あれ?あれ?」となってしまったりすることがあります。

その時に「あー、なんかこのあたりを押してみたらどうですか?」と遠慮深く言うと、「あ、動いた、動いた。よかったよかった」となります。

このあたり、相手のプライドを傷つけないようにしないと後がややこしくなるので、ずっと「あなたはすごいですねー」という態度で臨まなければなりません(めんどくさ)

本当はできるんだけどできないフリをするというこの場合も韜晦になるのかもしれませんが、今までずっややこしい人間関係に揉まれた経験から言うと、「さほどできないのにできるフリをする」のは墓穴を掘ることになるのでやめておいた方がよろしいと思います。

世の中には能力のある人が山ほどいて、私はまったくできない部類の人であると思っていた方がいいです。

黙っていて「もしかすると、こうかもしれませんね」と奥ゆかしく遠慮がちに言ってそれが正しいとなると、相手から「すごいねー」尊敬されます。

能ある鷹は爪を隠す

韜晦はこのことわざの別の言い方なのかもしれませんね。

#昔「能あるブタの爪はチョキ」と言っていたww

自虐歌

お正月につけっぱなしのテレビを見ていたら、研ナオコさんが出ていました。

「老けたな~」と自分を棚に上げて番組を見ていると「『愚図』は阿木燿子・宇崎竜童夫妻が初めてふたりで作って私にくれたのがこの曲なんです」とコメントしました。

ふ~ん、そうなんだ~。百恵ちゃんよりこちらの方が先だったんだ~と思いながら、「ところで「愚図」ってどんな曲だっけ」とYouTubeをググりました。

この頃とにかく固有名詞が出てこなくなり、「あれ、あれ、あれ、誰だっけ、何だっけ」と焦るよりもとにかく関連しそうなワードでググることにしています。

ありがたいことに2,3ワードで大体出てきます。世の中が進歩してくれたおかげで「出てこない固有名詞をいつまでも頭の中で探す作業」がかなり大幅に減って大助かりしています。

さて、探し出した「愚図」はこんな曲でした。

ああ、そうだった、こんな曲だったとあの頃にタイムスリップしながら聞き続け「夏をあきらめて」「あばよ」「かもめはかもめ」まで来たら、なんだか変な気分になってきました。

♪何もあの人だけが世界中で一番優しい人だと限るわけじゃあるまいし
たとえばとなりの町ならとなりなりにやさしい男はいくらでもいるもんさ

明日も今日も留守なんて 見えすいた手口使われるほど
嫌われたならしょうがない
笑ってあばよと気取ってみるさ(あばよ:中島みゆき)

あいたたたた、ふと林真理子さんの「死ぬほど好き」を思い出しましたね。とっくに飽きられているのに「彼はなにか誤解しているんだわ」とストーカーする女性の話。勤め先に何度も電話をしたり(ケータイがない時代)、家まで押しかけたり。じゃけんにされても「一緒に食事をして話をすればまた仲直りできるわ」とスカーレットオハラのように「明日また連絡してみよう」とする女。

♪あきらめました あなたのことはもう電話もかけない

あなたの側に誰がいても うらやむだけかなしい

かもめはかもめ 孔雀や鳩やましてや

おんなにはなれない(かもめはかもめ:中島みゆき)

♪おんながひとりきりで踊ってると不自然
そんな言葉 もう聞かないわ
今夜から利口になるの

おんなが連れもなしに店にいてもいいでしょう
あの人は忙しそうよ 恋人とあっているから

だからひとり 今日はひとり
踊りたいの あの人を恨みながら(ひとりぽっちで躍らせて:中島みゆき)

怖~~~~~~ 怖くないですか?

歌詞は全部中島みゆきですが、全編ふられた女の恨み節が漂っています。こんな自虐歌がヒットしていたということは、こういうのが当時の女性の共感を得たのでしょう。

今はどうなんでしょうか。紅白歌合戦で次々と出てくる初見のガールズ&ボーイズグループの歌はもはや歌詞が聞き取れない(聞き取る気もない)

中島みゆき:歌詞 研ナオコ:歌 コンビで知っているものは全部「どうせ私は○○だから、振られて当然よね」「私なんかあなたのそばに行けるような女じゃないのよ」「あの子の方がきれいだから比べたってしょうがない」

あ~~~、もうイライラするくらい自虐だ~。も少しプライド持てよーー。

「笑ってあばよと気取ってみる」と言いつつ、未練たらたらだし、そんなんじゃいい運も回ってくるわけがない。

この源流は何かと考えてみれば「演歌」です。「艶歌」とか「怨歌」などとも書かれますが、研ナオコは「怨歌」です。恨み節です。

こわ~~~~。

怨歌はずっと「男は旅をして、女は帰りを待っている」路線です。そしてその頂点は「着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて編んでます」

こわ~~~~~~。

そんな恨みを編みこんだセーター、怖くて着られない。

恋愛をしている女性は「相手が自分をどう思っているか」「自分よりいい人があらわれるのではないか」「その女に彼を盗られるのではないか」「いつか自分はひとりぼっちになるのではないか」という不安や恐怖があります。

それを「どうせ私なんか」と自虐の方へ走るより、ひとりでも生きられる思考を身につけたほうが断然生きやすいです。そしてそちらの方が断然かっこよくて魅力的に見えるのです。

LonelinessじゃなくてIndependence

どちらもひとりだけど、全然違う。自虐で半分白目をして下から見上げられたら、怖くて誰も寄ってきません。今年は目指せIndependenceと手帳に書いておくって、どうですか?

藁の一本

モラハラ界には「最後の一滴」とか「藁の一本」と評される言葉があります。

表面張力でやっと持っていたコップの水が、一滴の水でこぼれてしまう。

重い荷物を背負わせて砂漠を歩かせていたロバに、1本の藁を追加したら崩れ落ちてしまった。

耐えて耐えてやっと生きてたところに、ほんの些細な一滴や一本が追加したことで力尽きてしまったというたとえです。

67歳の人気ブロガー、ショコラさんが67歳で仕事を辞めることにしたそうです。

https://lee3900777.muragon.com/entry/2227.html

月12万円の収入で豊かな老後を過ごすをモットーにブログを書き続けていらっしゃるショコラさん。たぶん70歳をめどにリタイアを考えておられたと思いますが、67歳でリタイヤを決められたそう。

その理由は以前から体力の衰えや、仕事の内容など、思うところがいろいろあったようですが、とどめになったのは

”直接関係のない30代男子社員から訳が分からず責められた時
思わずプッツンしてしまい^^;”

とあります。

ああ、わかるー。私も2度それで仕事をやめています。

地方で働いていた時に、会社のトップが変更になり、仕事場の雰囲気ががらりと変わってしまい、私が大好きだった職場ではなくなってしまいました。

でも、安定した職場であることは変わりなく、収入も地方ではいい方。辞めても次に勤める会社がここより良いところはあるだろうかなど、ぐるんぐるんと同じところをずっと考えていたその時、後輩女性から結構な罵声を浴びせられました^^;”

実はこのことはずっと忘れていたのですが、最近手帳を整理していて見つけました。

ああ、そうだったんだ。あの一言で私はプッツンして仕事を辞める決心をしたのだった。

あの一言がなければ、もしかしたらジャストタイミングだった退職時期を逃すところだったかもしれません。だから彼女には大感謝です。

学校を出てから最初に勤めた会社でも、お局様からの一言で2年勤めた仕事を辞めました。辞めた後に良い職場に巡り合い、長く勤めることができました。だからこのお局様にも大感謝です。

モラ夫とも長く一緒に生活していましたが、ある日彼の一言でプッツンして離婚の決心をしました。あの一言がなければ、私は「こいつとは絶対に離婚する」という決心をしなかったかもしれません。

ここで言う藁の一本は「もう無理」と決心をつける次に繋がる一本でした。一本を積んでくれた相手にはむしろ感謝です。

まだモラ家からの避難ができない方は、もしかしたらまだ1本の藁が積まれてないのかもしれません。またはもうとうに限界を超えているのに「まだがんばれる」と荷物を背負って砂漠を歩いているのかもしれません。

あなたは背負わなくてもいい重い荷物を背負わされて、ムチと飴で歩かされていることに気づくこと。

モラル・ハラスメントはそれに気づくための言葉です。荷物を下ろしたら、世界は広がります。

東京は住みやすい

私は生まれ住んだ故郷が大好きです。今も大好きです。東京に来るときは「必ず帰るから」と住んでいた家に言い残してきました。

でも故郷を離れて13年、多分これから故郷に住むために帰ることはまずないでしょう、という話をたまたまそばいる人にしたら、「どうして?華やかな東京に染まっちゃった?」言われました。

故郷に帰らないことにしたのは、何しろ元夫しか故郷にいないからです。親も子どもも孫もきょうだいもみんな首都圏に住んでいるのに、ナニしにわざわざモラ夫のところに行かなあかんねん。

それが一番の理由ですが、何しろ東京は住みやすい。便利です。なんでもあります。よく「東京はお金さえあればいいところだよ」と言いますが、お金がなくてもどこかのパティシエが作ったスィーツをいつも食べるわけでもなし、コンビニスィーツで充分満足。

交通が便利です。車が無くても生活できるし、遠方の行く場合はどこかで乗り換えるなどのワンステップが必要になりますが、東京発着の交通機関が山ほどあるので旅行はどこへでも行けます。しかも安い。

そして大きいのは東京では人との距離感が保たれていて、嫌な目に遭うことが少ないからです。私は東京で10年間同じ場所に勤めていましたが、同僚の夫の職業や子どもの学校を知っているのは片手で足ります。

そもそも子どもや夫の職業のことが話題に出てくることがほとんどないのです。あちらから聞かれることもない。だから私が離婚していることを知っているのはほんのわずかです。別に離婚しているかどうかは仕事に関係ありません。

ところが地方ではこうはいかない。まず育ったところでずっと住んでいますから、必ず誰かとつながっています。親やきょうだいや友だちや親せきや同級生や、ともかくどこかでつながっています。

休日にショッピングに行けば必ず誰かと会います。秘密にしておきたいことがあってもあっという間に広がります。

その密なコミュニティの他に人の噂話しか娯楽がなかったりするので、何か変わったことをするとすぐに広まり、時には偏見の目で見られます。

日本は元々こういう民族でした。ムラ社会でしたので、人と同じことをすることで平和が保たれ、ムラは平和に保たれます。離婚も「ちゃんとしている人は離婚なんかしない」と信じられていますから、まだまだ離婚した人に対する偏見は根強いです。

特に年配者はどこかに悪口のタネはないかと目を光らし、夫や子どもの学歴や職業でネタを仕込み、あちこちにいいふらす。何しろ子どもの頃からのことを知っているので、「小学生の頃はこうだった」「あそこの親は○○に勤めていたが出来が悪くて」とツバを飛ばしてしゃべくりまくる。

まず、人を誉めるということがないのです。ひたすらに悪口のオンパレード。

文化がないせいかなぁと思います。娯楽もありません。買い物もいつも行くところ。変化がありません。

残念ながら、東京で10年以上暮らすと地方の悪いところばかりが目につき、自然があふれていたり、美味しいものがあったりと、いいところもあるのですが、人の距離感がとれない、常に人を引きづり下ろそうとしている人たちのところに帰りたいとは思わないのです。

私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記

「私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記」というコミックが評判のようです。統合失調症の母に代わって一家の家事をきりもりしている子どものお話です。

Twitterで流れてきた一部分しか読んでいないのですが、小学生の娘がすべての家事をしていることにまったく関心を持たない父と、認知症の祖父というふたりの大人が居るのに、きょうだいだけでなく、このふたりの生活の面倒もみています。

特に被害妄想で叫び暴れる母からの攻撃をどうかわすか自分なりの方法を自分で考案してかわす描写は、まるで戦時下の子どものようです。

この「母親が精神病で、母の介護も担っている子ども」に遠い記憶がありました。

ネットを始めたばかりのころ、女性だけのMLに入っていました。かなり大勢の人が入っているMLで、そのうち気の合う人たちがグループを作り、チャットやオフ会を楽しむようになりました(私はモラ家だったので、オフ会には参加できませんでしたが)。

その中のかなり存在感のあるA子さんは、肉まんを手作りするような家事をきっちりしている印象の専業主婦の方でした。でも、食事のほとんどはA子さんではなく、高校生の娘さんがしていたのです。

「買い物は娘がするから」「食事は娘が作っているから」と、チャットの時によく話していました。小学生の頃から娘さんに家事をしっかりと教えていたので、高校生の頃にはもう一家の家事をできるようになっていました。

ただ、A子さんは気性が荒くて結構きついので、娘さんにとっては教えられているというより無理やりさせられているような感じがしていたかもしれません。

ある日、数人でチャットをしていると、A子さんが「母が亡くなったので明日遠方に行く」と言い出しました。

「え?!」「こんなことしてていいの?!」「準備とかあるんじゃないの?!」と驚くメンバーに、「喪服は娘が用意しているから」と、さらっと言いました。

母の着物の用意を娘がしているって、超びっくり!娘に自分の準備をさせて、友だちとチャットをして遊んでいるという状態がかなり奇異に感じられました。

「これも彼女流の花嫁修業なのかしらね」と他のメンバーとこっそり囁き合ったりもしました。

そんなことがあったずーーっと後のこと。彼女から自分の母のことを語るメールが届きました。何かみんなで自分の母親談義をしていたのかもしれません。

彼女のお母さんは彼女が小学生の頃精神病になり、ずっと入院していたそうです。「母とはもう長い間会ったことがない」とのことでした。あのチャットをしていた夜に「葬式に行く」というのは、その長い間会っていないお母さんのお葬式でした。

彼女は自分もまたお母さんのように精神病になるかもしれないと恐れて、もし自分が精神病になっても子どもがひとりで生活できるようにと家事を教えていたそうなのです。

自分が楽をするためではなく、子どもの教育というわけでもなく、自分が狂ってしまった時のために子どもに家事を教えていたA子さん。

彼女の気丈なふるまいの内側で、いつ母のように狂ってしまうかもしれないという恐怖が隠れていたことは、私たちも、おそらく周囲の誰も知らなかったことでした。

A子さんとはもう年賀状も切れてしまい音信は不通になりましたが、娘さんが大学生になる年までは病気になることもなく、元気にしていました。今もどこかでPCに向かって何かを発信し続けているかもしれません。

ヤングケアラーのコミックから、ふと、A子さんのことを思い出しました。

見たくないものは見ないことにする

こうやって自分で自分のお尻を叩かないと動かない私が言うのもナンですが、相談員をしていた時に時々伺った、動く時に動かないとにっちもさっちもいかなくなりますよのお話です。

モラハラではなかったのですが、よく夫から離婚だと言われる方でした。モラハラの場合は「離婚だ、出ていけ」は脅しでしかないので聞き流してもよいのですが、この方の場合はモラハラではなく、本当に夫は離婚したくて結局は出て行ってしまいました。

夫に家を出られてみると、この先の生活のことが急激に心配になってきました。妻は週に2日のパートだけです。中高の3人の子どもがいてこれから急激に教育費がかかる時期。

一生懸命貯めたお金もすでに底をつきかけています。つまり貯金ゼロ。

もちろん調停をして婚姻費用はもらうことにしましたが、夫はそれほど多くない収入でしたから、受け取る金額も充分というにはほど遠い。夫から「離婚したい」とはずっと言われていましたが、まさか子ども2人を残して本当に家を出るとは思っていませんでした。

彼女はどうしたらよかったのでしょうか。

夫の収入が少ないのですから、彼女はパートではなくフルタイムの仕事を探すべきでした。確かに扶養の範囲を超えると社会保険料や税金が引かれますので手取り額が少なくはなりますが、夫からの養育費とパートの7万円では子どもふたりを育てるのは大変です。

大変なのはわかっていましたが、彼女はイメージすることをやめたのです。

「考えてもどうしようもないから考えないようにしてきました」

そもそもよっぽど夫が太っ腹で高収入だったら養育費をポンと渡してくれることも考えられますが、何しろ夫の収入が少なすぎてそれは望めない。夫の収入が少なければ妻ががんばって働いて二輪車で家計をやっていかなければならないのに、考えるのをやめて「なんとかなるさ」と日を送ってしまい、どん詰まりになるまで動こうとしませんでした。

誰もあなたの家の経済を支援はしてくれません。たまには放っておいてよかったということもありますが、少なくともどうすべきかということは考えておいて、もしもの時に備えておいた方が私は精神的に楽だと思います。