思春期の頃からずっと後を追ってきた森村桂さんがなぜ亡くなったか。新聞の小さな記事で自〇だったと見た時は「体の弱い人だったから、それを苦にしたのかな。あこがれの人だった桂さんにこういう亡くなり方はして欲しくなかったな」と思っていました。
長い間知ることもなかった桂さんの亡くなる直前の様子を知り、あの若い時のはつらつとした行動力の塊のような方が、無残な状態で亡くなったことに呆然としてしまいました。
最初の結婚の相手とは一生を共に過ごすつもりだったと思いますが、何しろモラ夫だったようです。それでもその頃の女性は「一度結婚したらどんなことがあっても添い遂げる」という考えの人が多く、「離婚は恥」「離婚したら後ろ指を指される」と思っていたようですので、(今もそういう考え方の人は少なくない)離婚してしまったことが大きな心の傷になったことと思います。
この記事を書くためにいろいろとググったのですが、一度目の夫は離婚の際桂さんに財産分与を要求したことが桂ファンの間では「ひどい」と言われています。でも、離婚の時に財産分与を要求するのは当然で、妻から夫へならば容認できるが夫から妻の場合は非難するというのはちょっと違うかなと思います。
結婚してから築いた財産は、たとえそれが桂さんのペン1本で築いたものだったとしても、その多大なる印税は半分相手に渡さなければならないのです。
さて、ある日知人に「私は森村桂ファン」と言ったところ、「私、あの人の最初の旦那さんと一緒に働いていたことがある」と言われてびっくり!ベネッセで一緒だったそうです。
彼女は「あの人(桂さん)は小説家なのよ。事実は本とはかなり違う」と言っていました。ただ、それが前夫は良い人だったという話なら、モラ夫は二面性がある場合が多いので、外ではいい人だったのかもしれません。それがまた妻を苦しめることになるのですが、桂さんもそうだったのでしょうか。
私もそうですが、ハチャメチャな性格だとどうしても「奥さんがひどくて離婚した」と言われがちです。
モラ夫からは日頃「あんな奥さんで気の毒だ」と周りの人から言われるような行動をとるように操作されていますので(マニュピレーター)、もし桂さんの夫が二面性を持つタイプならば、桂さんもモラハラ被害者としての苦しみを味わったことと思います。
何かと桂さんとご縁があると思いたい私ですが、次に書くことは私だけの出来事です。
1980年代のある夜、テレビをつけたまま寝ていて、ふと目を覚ますと画面に桂さんが映っています。どうやらそこは当時ソ連と言っていた場所で、桂さんとロシア人の女性がバレーボールをしていました。
桂さんのナレーションが入ります。
「中学生の頃、バレー部だった私。リスカルはあこがれの人でした。その人と一緒にバレーをするなんて夢のようです」みたいなことを言っていました。リスカルと言えばソ連のエースアタッカー。彼女の破壊的なスパイクは日本チームやテレビの前の日本人を絶望的な気持ちにさせました。
日本とソ連との試合ではアナウンサーが何度も「リスカル!リスカル!」と大騒ぎで叫んでいたものです。そのリスカルと動きはたどたどしいけれど一生懸命パスをしているのは桂さん。なぜ森村桂がリスカルとバレーをしているんだろう?と思いながらまた寝入ったのですが。
あれは夢だったのか何だったのかとずっと思っていたのですが、この記事を書くためにいろいろリサーチをしていたら、桂さんはテレビの企画でソ連に行っていたことがわかりました。であれば、私が夢のように見ていたのはそのテレビ番組である可能性が高い。
これを確かめるために今「ソビエトってどんな国?」という本をアマゾンで買ってただいまお取り寄せ中です。もしあれが夢でなかったら、私が動く桂さんを見た最後の姿になります。
長い私の森村桂さんへの思いを読んでくださってありがとうございました。森村さんが愛した軽井沢のティールーム「アリスの丘」は西荻窪に自宅と一緒に三宅さんが相続し、亡くなった後共産党に寄付され、共産党はすぐに不動産会社に売却し、更地にしたそうです。
森村ファンならば、できれば記念館でも作ってもらいたかったところですが、ファンも高齢化して先細りが見えていますから、土に返すのがよかったのかもしれません。
「天国に一番近い島」を書いた人は今何の苦痛もなくなり、天国からニューカレドニアを眺めていることでしょう。60年代70年代に彼女の書いた本に魅了された人たちは、今もなお夢に向かって突撃する桂さんに倣い、「扉は叩けば開く」の精神を受け継いでいます。
森村桂さんがいなかったら、今の私はなかったと思う。
私にとって偉大な恩人です。

