「ザ・ノンフィクション」困った家族

こちらの続きです。

「ザ・ノンフィクション」の話題を書いてきたついでに、心に残った回についてお伝えします。この番組では世の中の隅で生きている方たちをクローズアップして見せてくれますが、去年、この番組の関係者の家族の話「ちょっと心配な家族がおりまして~母と私と姉夫婦の話~」があまりにも面白すぎて、今もブルーレイの中に保存しています。

2020年、実家で産休中だったテレビディレクターの「私」のところへ姉が貯金を使い果たし、家を売るという知らせが来ました。詳しくは↓

https://www.fujitv.co.jp/thenonfx/_basic/backnumber/index-112.html

中学時代にうつ病になった姉は専門学校で知り合った大学の法学部で講師(おそらく非常勤)をしている資産家の男性と結婚し、裕福に暮らしていましたが、何分二人とも浮世離れしているので、お金をあるだけ使ってしまってもう残金がない。

姉の浮世離れぶりもなかなかですが、この夫の夢見る夢男ちゃんぶりがすごい。たぶんこの方が働いている大学(名前がしっかりでていました。日大です)で、一コマか二コマの授業を持たせてもらって教えているものと思われます。

おそらく大学側もどこかからの縁故でむかーし雇ったものだから、今更首を切るわけにもいかず、なんとなくずるずると雇用しているだろうと推測されます。

夫は収入の糧にしようと小説を書き、それがバカ売れして直木賞をとって億万長者になったらどうしようかと本気で困っている。さらにYouTuberで稼ごうと思い立ち、「ブルース・ポチ」として配信してみたものの、どうみても老人の独り言にしか見えず、再生回数もまったく増えない。この方の授業を聞かされる日大生も大変だなぁと同情しました。

こういうタイプのモラ夫は才能があるのにそれを理解できない相手が悪いと罵り、家の中で暴君になるものですが、この「ポチ」さんはあくまでも穏やかで優しくて世間知らず。お金は掘れば出てくると思っています。

#ここまでくればもう、何かの病気ではないかと思う

”私”の母親は中学生からうつになった娘が不憫でずっと援助してきましたがもう限界。父親は「もう見放せ!」という。おそらくこのお姉さん夫婦は遠からず生活保護になるでしょう。非常勤とはいえ大学の先生をやりながら生活保護を受けるというのはどんなもんなんでしょうか。

ともかく、まるでドラマのような経済的破滅のご夫婦の回でしたが、前回の婚活の回と同様注目ワードになっている、それは興味深い回でした。

耳が聞こえづらいのは職業病?

相談員をしていた時、相談は面談と電話で受けていたのですが、電話は左耳にあてるレシーバーを使用していました。仕事を辞める2年位前だったか、職場の健康診断で左耳の聞こえが悪いと言われました。

生活は特に支障なく過ごしているのですが、確かに検査では右では聞こえる音が左では聞こえていない。ちょっとショック。母も70歳を過ぎたころから耳が遠くなっていました。私はまだ生きていた父と「聞こえないっていうけど、自分の悪口は聞こえるんだよな」とコソコソ話をしたりしていました。

右はいいのに左がダメなのはなぜだろう。やはり仕事でレシーバーをかけて酷使しているせいとしか考えられません。しかも聞くのはみんな重い話。ストレスは耳に影響を与え、突発性難聴になったりすることはよく知られています。モラハラでも難聴になってしまった方のお話は聞いたことがあります。

仕事を辞めようと思った時、さるところから電話相談員のお話もいただいたのですが、これ以上耳に負担をかけると本当に聞こえなくなってしまうと困るので、お断りせざるを得ませんでした。

体のどこかを酷使していると、やっぱり弊害は出るものなのかもしれません。健康診断では他に黄信号がついたものがふたつありました。そして仕事を辞めて受けた健康診断ではまったく異常なしになりました。

やっぱりストレスは万病の元。健康を取るか、今の暮らしを取るか、です。

奇妙な「家族団らん写生会」

私が小学4年の頃。父親は月に数回酒を飲んでわめき散らす、母親はそのストレスをまともに子どもにぶつける。家は貧乏、学校へ行けばお金持ち大好きの教員から嫌われるという生活でした。

ある日曜日の朝、突然母が「家族団らんをしよう!」と言い出しました。

今思うと笑えてしまうのですが、家族団らんとは取り立てて始めるイベントではなく、日々が楽しく暮らせていればそれが家族団らんというものではないでしょうか。母が「家族団らんをしよう!」言った瞬間に私は「けっ!」と思いました。小学4年生です。

10歳でもこんな大人の幼稚な取り繕いに気づき、「けっ!」と思う頭は持っています。今10歳以上のお子さんをお持ちの方は子どもは幼いからわからないだろう、気づかないだろう、子どもなんだからと思っていても、子どもは大人が思っているより頭のつくりは大人です。

毎度毎度酒を飲んでわめきちらし、母は子どもに決して言ってはいけないことを叫びちらし、ナニが家族団らんじゃい、笑わせるんじゃねぇと思っていました。

母が思いついた「家族団らんイベント」は写生会でした。こたつの上に花を挿した花瓶を置き、それを4人で写生するというものでした。

母は必死で家族仲良い風景を作りたいと思っていたでしょう。がんばって家族らしいことを「お金をかけずに」やりたいと思っていたでしょう。そのがんばりがミエミエな分、私の頭の中には「浅はか」という文字が浮かびました。

#そんなわざとらしいことをするよりも、子どもたちに毒吐きするな

モラハラ被害者の方の中には「子どもが自分の辛さをわかってくれない」「私の味方をして、一緒に夫の悪口を言って」という方はいますが、これはやめた方がいいでしょう。結婚は夫婦で決めたことで、子どもには関係ないことです。子どもには楽しくのびのびと暮らす権利があります。その権利を守るのは親の役目です。

さて、写生会は終わり、ご丁寧にそれぞれの作品を見せ合いながらの寸評になりました。「お母さんのここがいい」「早智子は色がきれい」などと家族団らんごっこをしてお開きになりました。ありがたいことにこの家族団らん写生会はこれ一度だけで、二度と開かれることはありませんでした。

目の前で見る戦争

両親からは戦争のことは本当に耳にタコができるほど聞きました。ただ、戦闘機からの爆撃や、極度の食糧難を経験している母と、農家だったこともあり、あまり食べ物に不自由したことのない父では語る内容も違います。

ウクライナの戦争はこれまでと違い、市民が自ら撮影したものをネットに投稿するといった、情報を拡散させることが武器をひとつになっています。

考えてみたら、自分の周辺で起きていることをwebで公開することをしたのがモラハラが大きく広がっていった理由のひとつだったと思います。今までは親や友だちに愚痴っては「あなたにも悪いところがあるのでは」「どこも同じ」と言われて終わっていたのが、自分に起こっていることをネットのあちこちに披露したら「うちも」「うちも」という大きな賛同の波がこのモラハラの広がりに繋がったと私は思っています。

「モラハラ被害者同盟」が始まったばかりの頃、掲示板に投稿されたひとつに私の目が釘付けになりました。

「また始まった。今度は何なんだ」という投稿です。

ああ、私と同じだ。夫が急に口をきかず、不機嫌になった時にいつも思うことでした。

「今度は何なんだ」

不機嫌になった理由がわからない。その前に何があったのか、思い返してもわからない。「今度は」というからには何度も繰り返されていることを意味しています。私と同じ思いをしている人が同じ日本にいたんだ。これは大きな発見でした。

夫と同じ人がこの日本にいるんだ。それも結構たくさん。

同じようにウクライナの戦争は、市民ひとりひとりが自分の目の前で起っている出来事をネットに送っていることが今までの戦争と違っています。

オリパラの時にしつこく言われたのが「SNSに投稿しないでください」でした。記念写真の撮り方という指導もありました。写真は映りこんだ人がネットに公開されたくない場合もありますので当然かと思いますが、結構いろいろな(オリパラ委員会にとっては困った)情報がTwitterに投稿され、(私のとっては)とても役にたったこともありました。

その投稿を見た人と見なかった人の間には「すごく得をした人」人と「損をした人」に分かれました。後から「知らなかった」「見た人だけが得をするなんて不公平だ」という声がネットに投稿されました。私は得をした方でした。

情報はとにかく取る。片側だけでなくあらゆる方向から取る。それを自分なりに精査して動く。動かなければ取らないのと同じ。

太平洋戦争の時、市民が生きるためには口コミという方法で情報を取り、人知恵を駆使して暮らしていました。

死ぬわけじゃない

私が何かアクシデントがあった時、確かにその瞬間は「こりゃー大変だ、どうしよう!」と思います。「どうしよう、どうしよう、どうしよう」と部屋の中をウロウロするときもあります。そういう時は取り合えず時間をおいてからじっくりと考えることにしています。

そうすると「こうしたらどうだろう」「こういうこともできるんじゃないか」とアイディアが出てきます。アイディアが出てくるとなんとなく解決の方向が見えてきます。そうしたら後はやるだけですが、どうしてもできないこともあります。そんな時に思うのは

#これで死ぬわけじゃない

大きな損害は被ったけれど、これで死ぬわけじゃない

いやいや、死んだ方がマシという人もいますけれど、じゃ、死にますかと言ったらそうは言わないでしょう、普通。死んだ方がマシというフレーズを出しているだけで、本当に死のうとは思っていないはず。死んだら楽かもしれませんが、大抵は何とか乗り越えるものです。

こんな時に役に立つのは経験則です。私の年になればいろいろな経験則があります。過去に起きた出来事が私を救ってくれる。だからいっぱいいろんなことをして、いっぱい失敗した方がいい。道に迷った時も、いつか同じ道を通るから「あの時はこちらに行って失敗したから、こちらはダメ。こっちにしよう」という考えが出ます。

私はウロウロと知らない道に行くのが好きですが、不思議なことに後からその道に出くわし、しかも時間がなくて急いでいるということがよくあります。でも、前にその道は行ったことがありますから、見覚えのある建物や看板を目印に目的地にたどり着くということが数限りなくありました。

この急いでいるときに私を助けるため、過去の私が迷ったのだと思います。時間のある時に迷っておけば、いざというときに過去の私が助けてくれる。

どんなことでも最後の出てくるのは「これで死ぬわけじゃない」。死ぬのはもう少し先でいい、って思います。

幸せは腹八分目

私が離婚したとき、たくさんの人たちが応援してくれました。ただ、日が経つとちらっ、ほらっとそうでもない言葉やら出来事やらが出てきました。気にしてないけどね。

なぜそういう言葉や出来事が出てくるかというと、離婚しても我が家は安泰だったからです。シングルマザー、母子家庭ではありましたが、ボロにくるまってモヤシを食べている家庭ではなく、ごく普通の生活を維持していました。これは私がずっと仕事を続けていて、それなりの収入があったからです。

それが気にいらない、という人種がいるのです、悲しいことに。

離婚したら不幸そうにしていなきゃダメなのよ、贅沢なんかしちゃだめよ、やっかまれるわよとは友だちからも言われていました。だって、車を替えたのは壊れたからだし、外壁はもう寿命でボロボロだったから工事したし、するならちょっときれいな色にしたいじゃない、よね。

それが気にいらない。離婚した人は不幸で貧乏暮らしをしないと気に食わない。

だから気をつけてましたよ。実際働き手は私しかいないし、子どもはお金がかかる最盛期だったし、車は地方では必需品だから車式の古い軽自動車にしました。

プーチンスカヤ(母)もそうでした。娘が自分より幸せになると面白くない。といってものすごく不幸だとやはり心配。娘は少し不幸なのがちょうどいい。人の不幸は蜜の味と言いますが、そう思う人は今の自分の状態が満足ではないからです。だから自分よりお不幸な人を探しにいって溜飲を下ろす。

人の不幸を探しに行く人は、まず自分が幸福に思えるような考え方を身につけたらいい。本当はそこそこ幸福なのに、それに気づかないだけだったりします。腹八分目の幸せが一番いいところじゃないかなぁ。常に満腹は健康にもよくないように、常に幸せいっぱいもまずないし、そこから少しだけ悪いことがあったら落ち込んでしまう。

すごい幸せもないかわりにすごく不幸もないという暮らしが一番いいんだって、と言ったスピリチュアルな友人がいました。それなりな苦難があった身としては本当に平凡にあこがれますね。

ありがたい無料相談

実家の相続のことで(プーチンスカヤ(母)はまだ死んでない)不動産の法的手続きについて知りたいことがあったので、区役所の無料登記相談に行きました。これは本来であれば法務局に行って尋ねればいいことなのですが、現在、法務局はコロナ対応のため、対面での相談を行っておらず、予約をとっての電話相談になります。

聞きたいことは「ここは手書きですか?印字でも大丈夫ですか?」みたいな簡単なことなのですが、電話に出る職員の方はまず「法務局のHPを見てください」から始まる。「見てもわからないので教えてください」と言うと「では予約を」となります。手探りの状況なので、疑問点が出たらすぐに聞きたいのですが、なにせ「予約を」と言われる。

予約を入れて相談すると「それは私の預かり知らないことです(←本当にこういう)」とそっけない。おそらく私の質問は税に関することで、法務局の管轄ではないのでしょう。でも、これがどちらの管轄なのかがわからないので聞くと「それは私の預かり知らないことです」を連発される。

そんなこんなの手続き作業もやっと終わりが見えて、集大成として作った書類の総点検をしていただこうと2週間後の区役所の登記相談に申し込みました。

予約の時間に書類を持って部屋に入ると、若い、スーツを着たきりっとした女性が座っていました。ふと、「あらー、私は相談員をしていたときにどうでもいい格好をしていたなー。ちゃんとした服を着るべきだったかも」とちょっと反省しました。やっぱり服装は大事。

書類を見せて「ここはこれで大丈夫ですか?」と確認を取りながら進めていくと、「ちょっと待ってください」と言って戸籍謄本を見て、「これ、全部じゃないですね。一部です」と言いました。相続登記には亡くなった父の全戸籍が必要なので、役所には「全部の戸籍を」と申請書に添付した手紙に書いたのですが、どうも全部ではないらしい。

「全部の戸籍とはお父さんが産まれてから死ぬまでの戸籍が必要です。産まれたときの戸籍がありません」

「へ?!」

ここで私は思い出ました。どうやら故郷には戻らず、東京で生涯暮らすことになりそうだから本籍を移そうかと思って戸籍係の方に相談したら「本籍はめったやたらに移すと後から追いかける時にすごく苦労するから、動かさない方がいい」と言われたのです。その「後から追うのに苦労するから」の意味はわからなかったのですが、言われた通り本籍は元居た住所に残したままでした。パスポートを取るときなど、戸籍謄本をいちいち郵送で取るのが面倒くさいのですが、元居た場所と縁を切りたくないというのもあり、残したままでした。

戸籍謄本は本籍がある場所のものしか取れず、本籍を動かすとその場所を管轄する役所に取り寄せ依頼をしなければならないのです。

つまりA県A市で生まれて、親が本籍を動かしてB県B市に行くと、A県A市とB県B市の両方に戸籍が分散してあるのです。B県B市の戸籍には「A県A市から転籍」が最初にありますから、A県A市にも取り寄せの申請が必要とわかります。

本人が生きてれば「最初はA市、次にB市、次にC市」と言ってもらえるので最初からそれぞれの役所に申請しますが、何しろ亡くなっているので、戸籍を取り寄せて産まれた発着点にたどり着くまで捜査をしなければなりません。プーチンスカヤに聞いても「結婚前のことなんか知らない」なので、地道に探索するしかありません。

おそらく父は産まれてから転籍を1度しかしていないと思われるので(まだ探索途中)、2市だけで済みそうですが、これが私の場合だと、もっと多くなります、というか女性は転籍が多くなりがちです。

1 産まれた場所 2 親が家を建てたのでそこに転籍 3 結婚して夫の実家の籍に移る ←これはたぶん今もあると思いますが、女性は結婚すると「相手の家に入る」という風習があり、夫の実家の戸籍に入ることが少なくないと思います。私もわけもわからずそうしていました。 4 家を建てたのでそこを本籍とする。モラハラも離婚もなければそこで終結だったと思いますが、私は離婚をして自分で戸籍を作っていますので(5)がありますが、同じ市内で作っていますので、取り寄せの時は1か所で済むのではないかと思います。

子どもが結婚をする時に戸籍を動かす話になった時にこの話をしました。「本籍はなるべく動かさない方がいいって役所の人が言ってた」と言うと息子は「じゃ、4↑の場所、つまり自分の本籍へ妻を異動させよう」と言ったのですが、そこで私とハナコさん(仮名)が反発。「じゃあんたがハナコさん(仮名)の本籍に移ればばいいじゃん。一緒じゃん」。

息子、不本意の表情。

#なんだよ、相手が自分の戸籍に入るのはいいけど、自分が相手の戸籍に異動するのは嫌なのか?

ハナコさん別の意味で反対。「戸籍を取るときにお義父さんに頼めばいいっていうけど、それは気兼する」

ハナコさんは「私が私が」というタイプではなく、夫の姓にするこを何の疑問もなく同意したくらい普通の女の子なのですが、始終会っている私ならいいけど、会ったこともない(その時は会っていなかった)夫の父親は煙たいよう。

結局話し合って、「ふたりが最初に住んだ街を本籍にする」ことで合意。

#よかったよかった、大団円

とまぁ長くなりましたが、戸籍は離婚するときにぶち当たる問題ですので、離婚を考えている方はよーーく調べて対応してくださいね。

ともかく今回は区の無料相談に行って大変貴重なアドバイスをいただけたので、ちゃんと税金を払っててよかったなの巻でした。これが司法書士さんの有料相談に行くと30分5千円ですからね。

区役所や市役所無料相談はいろいろ沢山あります。タダより安いものはありません。ぜひご利用くださいね!男女参画センターの無料相談もありますよーーー。モラハラ相談できますよーーー!!

努力は報われないか

昨日のフィギュアスケート男子、良かったですね。以前は「ひたすら氷の上で飛んでるだけ」の印象だったネイサン選手も、ちゃんと見られるようになりました。

羽生選手が当時絶対王者だったパトリック・チャン選手からその地位を奪ったのは、8年前のソチオリンピック。思わず昨日「パリの散歩道」をプレイバックしてしまいました。

初々しい。今の鍵山選手に重なります。人はまだちょっと青い、これから成長する楽しみのある者に惹かれるものなのかもしれません。

「努力って、報われないもんなんだな」って、終わった後絶望の中から絞り出すように言った羽生選手ですが、その時の彼の正直な気持ちだったことでしょう。あのショートの「穴のボコっ」が無かったらと、ずっと思っていたかもしれません。

ショート当日の試合前、たまたまテレビのワイドショーでフィギュアスケート解説の佐野稔さんが「選手が飛んだり回ったりする場所は決まっているので、練習ではそこに穴を作らないようにその場所では飛びません。その穴の場所は個々で違います」と言っていました。

まさにその予言通りというか、羽生選手は誰かが作った穴にはまってしまった。ネットでは「飛ぶ場所は決まっている。誰かがわざと穴を作ったのではないか」犯人捜しの大騒ぎになっていたとか。誰もわざと穴を掘るわけではないでしょうに。

さて、「努力は報われないか」ですが、報われる時もあれば報われない時もあるでしょう。今回は運が悪かった。努力の報いは運不運によることがものすごく多いので、神様に愛されるよう日々精進しましょうとしか私は言えません。

後はその目標が射程圏内にあるか、どう頑張ったって無理だろうということに力を使っていないか、そこは冷静に見極める必要はあると思います。目標のちょっと上くらいの場所を目指すのが、努力が報われるコツかなと思います。

新聞紙タワーと無意識のジェンダー

北京オリンピックが始まりますが、やはり東京オリンピックで参加する喜びを知ってしまったからなのか、いつものオリンピックと違って今一つワクワクしません。本当に東京オリンピックのボランティア活動は楽しくて楽しくて、できれば次回もパリに飛んで行ってやりたいくらいです。

もう東京オリンピックが終わったので書きますが、オリンピックボランティアの選考面談会で行われたのはグループワークと2対2の面談でした。面談で私と一緒だったのは外語大に通うキュートな女子大生。「英語は大丈夫です!」と言い切り、「なんでもやります!車の運転もします!」と大いなるアピールができる彼女が眩しい。

さて、グループワークとはテーブルに20~30枚ほど積み重ねてある新聞紙を使って一番高く作れたグループが勝ちという競技でありました。1グループは8人ほど。みんな初めて会う人たちです。テーブルは10くらいだったでしょうか。

ここで私は「不利だな」と思ったことを白状します。私のテーブルのメンバーは全員女性だったからです。なんとなくこういう工作物は男性が主になって作るイメージがありました。「それにしても新聞紙でタワーって??」と、まったく想像できない私は他力本願装置にスイッチオン。

できないものはできない

「では始めます!スタート!」の声に、髪が長くて背の高いアラサーと思われる女性が口を開きました。「東京タワーのようなタワーを作ります!新聞紙を細く長く丸めてください」「土台を作ります!新聞紙を丸めて敷き詰めてください」と作業を指示。

さらに「きっと仕事ではバリバリなんだろうな」と思われる口調がきっぱりしている別の女性が「あなたはこれ、そっちはあなた」と人員配置を指示。それに従ってメンバーが動き始めました。彼女は「有明にオフィスがあるからオリンピックの施設がしだいにできあがっていくのが見えて、ワクワクするのよね」と言っていた人です。

東京タワーのようなタワーということだから、展望台部分という中間点を作るんだろうなと思ったので、私はその部分を作りました。建造物は土台が大事。タワーが高くなるにつれて揺れ始めた新聞紙の梁を落ち着かせるべく、メンバーに新聞紙を堅く丸めてもらい、土台の補強をお願いしました。

他のグループのタワーは形も進捗状況も様々。せっせと動いている人以外はぼーっと立っている人もいたりする。せっかく高く伸ばしたのにあっという間に崩れてしまうタワーもあり、悲鳴が上がる。

「終了!」の合図とともにタワーを支えていた手を離すと、かろうじて私たちの東京タワーもどきは自力で立ってくれました。結果は残念なことに2位でした。でも10以上あるグループの中の2位です。

「実は私、建築科の院生なんです」と照れながら話したのは「東京タワーを作ります!」と言った髪の長い女性。「なるほどーーー!」と納得しごくのメンバー。

女性は建造物は苦手、男性がいないと不利と思った私は、自分の中で隠されたジェンダーに気づかされました。私が立体構造物が苦手だからと言ってみんなが同じなわけでもない。女性にはあまりにも過酷だと思われていたのでマラソンは最初、男性だけのスポーツでした。でも走ってみたらちょっとは遅いけどちゃんと49.195キロ走り切れる。重量挙げだって、サッカーだってアイスホッケーだってできる。そうやってスポーツは進化してきたはずです。

オリボラ友が集まって、「またあの新聞紙タワーから始めたいねー」と誰かが言うと、みんな目をうるませてうなづきます。

やっぱりオリンピックは参加することに意義があるのかもしれません。

運のよい時期はイケイケgogo!

今日は2022年2月2日で2が5つ並ぶ日です。2月22日になると6つ並びます。7つ並ぶのは200年後です。

振り返ってみると2008年から2010年までの3年間、私はツキにつきまくっていた時期でした。それから12年後の2020年から2022年の3年間もたぶんいけるだろうと思っています。残念だったのはコロナ禍でいくつかのイベントが無くなったり縮小してしまったことですが、それもまぁ無くなったことで禍から逃れたのかもしれません。

人は12年間隔でラッキーな時期があるそうです。逆を言えばあまりよくない時期もあるということですが、その時は動かずにじーーっとしています。静かに蟄居でもしてます。そのメリハリを自覚して行動するのがいいかなと思っています。

本当に運のいい時は悪いことが起こる気がしない。どこで何をしても全部イケる気がします。だから怖いものなし。全部やります。この時を逃がすなとばかりに怒涛のように動き回ります。だってもったいないじゃないですか、12年にこの時だけなんですよ。何をやってもうまくいくというのは。

今まで生きてきて、どうやらこうだなという法則性がわかってきたので、自分の人生の流れに乗りながら、時には急流下りや岩ぼこもあるけれど、いつか見るであろう大海を目指しながら一寸法師は櫂を操るのだ。それもまた楽し。