森村桂さんはなぜ亡くなったか 2

森村桂さんの著書一覧を見ると、私はほとんど読んでいました(結構びっくり)。ただし、桂さんのノンフィクションエッセイはとても面白いのですが、フィクションは面白くないので読んでいません。

著書の中には「結婚志願」とか「ああ結婚」、「それゆけ結婚」など、結婚をテーマにしたものが多くあります。今手元にないので細かくはわからないのですが、桂さんは年頃になったら結婚しなければならないと強く思っていたようです。

あの時代の方にしては珍しいほどの行動力をお持ちなのに、「女は年頃になったら結婚せねばならぬ」「結婚したら子どもを産まねばならぬ」「女は家で上手に料理を作らねばならぬ」という、ものすごい固定観念がありました。

あの突拍子もない行動力はおそらくADHDだったのではないかと思いますが、常に動いていなければ気が済まない衝動と、古風な女の生き方をせねばならぬという思いが混在していたようです。

それが前に書いた三宅さんのいうところの「らしさ」を強要されたのではないかということも想像できるのですが、三宅さんは桂さんのハチャメチャな所に魅力を感じ、まるで保護者のように寄り添っていたと同時に、彼女に商業的価値を見出し、そちらのプロデュースにも励んでいました。

この辺りが「金目当てに結婚した」と言われる所以かもしれません。

そういえば森村桂と言えば一時はベストセラーを連発し、ワイドショーの司会もして、飛ぶ鳥を落とす勢いの作家でした。今と違ってベストセラーと言えば百万部単位で売れた時代。言われればそうですが、相当のお金が入ってきていたはずです。

最初の結婚相手の方は冒険家で、桂さんと結婚すると仕事を辞め、エベレストだヒマラヤだと雪男を探しに行く人でした。その費用はおそらく桂さん頼みだったでしょう。彼女もそれをネタにして「ダンナさまヒマラヤへ行く」、「ふたりと一匹 ダンナさまヒマラヤへ行く」と書いていました。

そのダンナ様から突然離婚を言い渡され、絶望の中をさまよいボロボロになった状態を描いたのが「それでも朝はくる」でした。

桂さんは古風な考え方の持ち主ですから、一度結婚したらその人に一生添い遂げるつもりだったのでしょう。たとえその人がモラハラ夫だったとしても。

その出来事が起こる前は「ダンナ様」と呼びながら、一生懸命彼に尽くしていた様子が数々の著書に中に記されていますが、そのダンナ様は別の女性と家庭を作るという形で終わりを迎えました。ひとり残された桂さんは地獄の苦しみを味わいます。

「結婚はりんごの片割れと出会うこと」と幾度も著書の中に書き綴っていたのに、相手から捨てられるという形で終わってしまった結婚。

三宅さんの著書によるとこの本のタイトルは最初は「離魂」だったそうで、それを三宅さんはこの「それでも朝はくる」というタイトルに変えたそうです。

「それでも朝はくる」

「Tomorrow is another day」

どんなに今が絶望の日々であっても、「それでも朝はくる」

この言葉が、いろいろな絶望の中にいる人たちをどんなに励ましたことか。この本は桂さんの久々のヒット作となりました。

続きます。

森村桂さんはなぜ亡くなったか

先日の夜、なかなか寝付けないので本でも読むかと本棚を見て、「しちめんどくさい本は読みたくないな、軽いものはないかな」と探したら、森村桂さんの本がありました。

「お隣さんお静かに」

桂さんが大学生の頃お父様が亡くなり、生計のためにアパートを建てた話です。

私は高校生の頃、森村桂さんの本を読み漁りました。新品は高くて買えないので、私が持っている本のほとんどは古本屋で買ったもので、この本はその中の1冊です。

「お隣さんお静かに」を読んでいると、無性に他の本も読みたくなり、そばにあった「お菓子とわたし」にも手を伸ばしていました。

私はよく「行動力がありますね」と言われますが、それは多感だった頃、むさぼるように読んだ森村さんの影響が非常にあります。

行きたいとなったら行く、欲しいとなったらなんとしても手に入れたい。その思いに引きずられるように周りの人を巻き込むのですが、巻き込まれた人たちも迷惑とは思っていない。彼女のために一生懸命尽くしてくれて、思いが遂げられると一緒になって喜んでくれる。

彼女のストーリーは大抵ハッピーで終わるように、私の突進も多くの成果がありました。

そんな森村桂さんが亡くなったのは、「モラハラ同盟」を始めた翌年、新聞に「森村桂さん〇亡」の記事が出て、私もパブに「ショックです」の書き込みをしました。

体の弱かった方なので、それを苦にして自〇なさったのかなと思っていました。先日ふと、「森村桂 〇因」で検索をすると、夫である三宅一郎さんが亡くなった時のことを書いて本にしていることを知りました。早速図書館にリクエストを入れ、読みました。

1回目の結婚が夫から離婚を突きつけられるというショッキングな出来事で相当傷ついていた桂さんに、周りの方たちがなんとかしようとお見合いの話を持っていき、実際にお見合いして結婚したのが三宅さんです。

三宅さんは桂さんの保護者のようによりそい、最後は狂気の世界に行ってしまった森村さんに最後まで尽くしたと本に記されています。

ただ、三宅さんが書いている中で違和感がある部分があります。「人には『らしさ』というものが必要だ」という部分です。三宅さんがそれを求めたのは桂さんの母に対してでした(と読めます)。

桂さんのお母様はいろいろと問題のある母親でしたが、一番母親らしくなかったのは、子どもに対する愛情が欠如していたという部分です。お嬢様のようで生活力がまるでない、お金があってもなくても使ってしまう。

桂さんはお父様が亡くなった後、大学生でありながらこの生活力のない母を抱えて一家の主として働かねばなりませんでした。しかし、この母は子どもが小さな頃から母親としての実務も愛情も中途半端だったらしく、桂さんは愛情不足のまま母に対する責任だけを持って家を守ることになったのでした。

長くなりそうなのでいったん切ります。

母との変な思い出

何の連脈もなく突然思い出すエピソードがあります。学校のこと、友だちのことはもちろんですが、母とは長いつきあいで、成長期の時代が多いためか不思議なエピソードがぽつぽつと記憶の中で点在しています。

その中のひとつ。中学生頃のこと。

母と街中に出かけたことがありました。すると母はふと、とある映画館の切符売り場に寄りました。どうやら母はそこで切符を売っている同世代の女性と知り合いらしい。その切符売りの女性はおそらく母と話をしたいのでしょう、私に「中に入って映画を見ておいで」と言ってくれました。

映画は大好きでしたので、わくわくと館内に入りました。するとスクリーンいっぱいに現れたのは紋々が体中に入ったヤクザの男たちが大立ち回りをしているシーン。

日本刀が銀幕を走り回り、血しぶきが飛ぶ飛ぶ。

思わずフリーズ。

次のシーンでは、大立ち回りで傷を負った男が布団の上に横たわり、和服の女性が団扇で扇いで何かを言っていました。

ここらでやっとフリーズが溶け、気持ち悪さで頭がくらくらしながら室内をでました。

日本刀と血しぶきがスクリーンに舞っていて、男たちが断末魔の声を上げている光景は今も忘れられません。

ふと隣の映画館を見ると「いちご白書」のポスターが。

「こっちを見たかったなぁ」と思いつつ、母の長い世間話が終るのを映画館の長椅子で待っていました。あの布団に寝ていたのは男は健さんだったのか。もし健さんならヤクザの健さんを見た、最初で最後の映画だったかもしれません。

向田邦子と東京地図

今NHKBSで放送中の「あんぱん」を毎日録画してみています。中園ミホさんは好きな脚本家ですが、残念ながら一緒に放送されている「チョッちゃん」の方が断然面白いので、最初に「チョッちゃん」、次に「あんぱん」という順序で見ることになります。

それでも「あんぱん」が1カ月ほど前から実在の人物が名前を少しだけ変えて登場し、やなせたかしの豪華な交友関係のエピソードが出てくるころからがぜん面白くなりました。

「へー、手塚治虫はやなせたかしを尊敬していたんだ。へー、いずみたくと永六輔はこんな感じだったんだ」と、なかなかおもしろいテレビや演劇やマンガ界のことが描かれています。

たまたま「週刊文春」を読んでいたら、脚本の中園ミホの「あんぱん」に関するインタビュー記事がありました。その中で「のぶ(やなせたかしの妻)の妹の蘭子のモデルは向田邦子」と明かしていました。

そういえば蘭子は「辛口の映画評を書いている」のを見込まれて、雑誌の編集長、八木さんから記事を書かないかと誘われていたっけ。向田邦子も映画評を書いていましたよね。

向田邦子がその映画評の思い出として書かれたエッセイがありました。

とある方が「ゼームス・デンの『イデンの東』」と言っているのを向田さんが聞き、「ゼームス・デン?グレートデンみたいだな。遺伝の東?医学映画だろうか」と思ったが、実はその方は訛があり、ジェームス・ディーンの「エデンの東」だったと書いたエッセイがありました。

向田さんのエッセイの中には東京の地名が出てくることが多いのですが、私は地方に住んでいたので、その地名を読んでもピンときませんでした。東京、青山、新宿、渋谷と言われても、その位置関係がわかりません。

東京に来て日比谷と銀座と新橋は地続きであると知り、「へーーーー」とびっくりしたものです。

エッセイの中で「電車に乗って車窓の外を見ていたら、家の中にくたびれたシャツを着た男の人とライオンがいた」というお話がありました。

なぜ家の中にライオンがいるのかとびっくりした向田さんがそれを載せたところ、「それは私です」と名乗りを上げた方がいて、実際に家の中でライオンを飼っていたことがあると判明するのですが、その電車が走っていたのは中野でした。

今は中野あたりの風景と言えばこんな感じねとわかるのですが、日比谷も銀座も知らない頃の私では中野がどのような街並みなのかさっぱりわからず、たぶん自分の知っている町並みに合わせてこの光景を想像していたと思います。

今は大きな駅の名前を言えば「このあたり」と頭の中に地図を描けるようになったので、もう一度向田作品を地図を描きながら読み直してみたいと思っています。

シュピルマンの時計とフォーゼンフェルト大尉

我が母はしっかり戦中派の人で、爆撃も体験しています。その彼女が大好きな映画が「戦場のピアニスト」です。父が存命の頃は何度も「ビデオかけて」とせがんでいました(彼女はビデオのかけ方がわからない)。

「あの映画、いいんだよ」と何度も言うので、一応話を合わせるために、アウシュビッツが出てくるユダヤ人迫害の戦争映画だから、たぶん悲惨なんだろうなと思いながら見ていました。

「戦場のピアニスト」はウワディスワフ・シュピルマンという実在のピアニストが書いた原作を元に作られた映画で、彼の親族全員は映画の中で描かれているとおりドイツ軍に殺されます。

一人残ったシュピルマンは廃墟のビルの中で隠れて生きているのですが、ある日ドイツ軍将校のフォーゼンフェルト大尉に見つかってしまいます。

「殺されるか」と思ったその時、将校は「仕事は何をしていたのか」と聞きます。「ピアニストだった」と答えると、ビルの一室にあったピアノを指して、「弾いてみろ」と言います。

シュピルマンは寒さで白い息を吐きながら、ショパンの「バラード1番」を引きます(羽生弓弦君を思い出すわ)

その曲を聞いた将校は彼を連行することなく匿い、食べ物を運び、ドイツ軍が撤退するときには彼のオーバーコートを与えていきます。相当前に見た映画なのですが、このシーンは何度見ても胸をうちます。

このドイツ軍将校はドイツが敗れた後、ソ連の捕虜になり、収容所で死亡したことがわかっています。

この映画だけではわからないのですが、この将校、フォーゼンフェルト大尉はシュピルマンに敬語で話をしていたのに字幕で誤訳しており、「お前」という上からの言葉を使われてしまったそうです。

このことはシュピルマンの息子さんであるクリストファー W.Aスピルマンさんが書かれた「シュピルマンの時計」という本に書かれています。スピルマンさんは現在日本に住み、大変日本語が堪能で、この本も翻訳ではなく日本語で書かれています。

この本の中で「この誤訳のためにフォーゼンフェルト大尉の人間性が誤解されてしまった」と書いています。

そしてフォーゼンフェルト大尉は気まぐれでユダヤ人であるシュピルマンを助けたわけではなく、他にも大勢のユダヤ人を助けていたと書かれています。

映画ではその後のフォーゼンフェルト大尉についてラストの字幕で「収容所で亡くなった」としかありませんが、戦後、ドイツからシュピルマンが働いているポーランドのラジオ局にフォーゼンフェルト大尉の妻から「収容所にいる夫を助けて欲しい」という手紙があり、初めて自分を助けてくれたのはフォーゼンフェルト大尉という名前だということを知ります。

戦時中、ふたりはお互いの名前を知ってしまうと、捕まった時に言ってしまうかもしれない恐れから、名乗らずにいたそうなのです

シュピルマンはフォーゼンフェルト大尉を助けようと奔走しますが、ソ連の収容所だったため、叶わぬままとなりました。

スターリンが死亡した後、ポーランド人も国外に行くことができるようになり、シュピルマンは真っ先にフォーゼンフェルト大尉の家に行きますが、すでに亡くなっていることを聞かされます。

シュピルマン家とフォーゼンフェルト家はその後も親交を持ち、「戦場のピアニスト」がポーランドで試写会をした時にはご子息が出席されたそうです。

あの廃墟で「バラード1番」を弾く場面に佇むフォーゼンフェルト大尉(お父様)を、ご子息はどのような気持ちで見つめたのでしょうか。

「シュピルマンの時計」には、父であるウワディスワフ・シュピルマンの家庭での姿などが書かれています。

さて、出演時間は短いものの、強烈な印象を残したフォーゼンフェルト大尉役のトーマス・クレッチマンを、私は思わぬところで再見しました。韓国映画の「タクシー運転手 約束は海を越えて」で、ドイツ人のジャーナリストを演じておられました。

きっとこのタクシー運転手の監督さんはこの「戦場のピアニスト」を見て、ぜひ彼に出演を!と思ったんだろうなぁ。

母のお気に入りの映画からまた話が広がり、思わぬ展開になったことを戦後80年の今日、書いておきたいと思いました。

海を守る36人の天使

昭和のマンガについて書いていますが、今もネットで読める私が好きだったマンガがあります。

「海を守る36人の天使」

これは臨海学校に行った小学生が突然起きた大波にのまれ、多くの子どもが犠牲になった事件を元にして書かれたマンガです。1967年8月~9月にかけて短期連載されました。

引率していた男性教諭が罪に問われ、裁判を重ねて無罪になるまでが描かれています。友だちや子どもを亡くした人たちの思い、教え子を救えなかった先生の葛藤などが描かれていて、小学生だった私に大きな感動と、裁判の厳しさを教えてくれたマンガです。

このマンガは作者のHPで無料公開されています。

http://okworld.sakura.ne.jp/title/book28/index.html#comic

このマンガは1955年7月28日に起きた「三重県中河原水難事故」が元になっているものですが、この海難事故は一度に多数の女子中学生が死亡した事件というだけでなく、亡くなった生徒たちは「防空頭巾の女達から海中にひきずりこまれた」という話が広まり、怪奇として世に広まることになりました。

亡くなったことよりも亡霊伝説として人の口にのぼることになったそうなのですが、実は亡霊云々の話はなかったということが21世紀になってわかりました。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/nakagawara_jp_62e0d119e4b03dbb991eb7d6

雑誌記者がこの事故についてインタビューを受けた方の話を脚色し、こういう怪奇体験の話を作ってしまったのが真相だそうです。

子どもの頃、「お盆に海に入ると霊が足を引っ張る」とよく大人たちが言っていましたが、もしかしたらこの話から世間に広まったのかもしれませんね。

この事故については「死の海」(後藤 宏行著)として6年前に出版されています。なんだか幼いころに読んだマンガがこのような大きな広がりを見せるとは思ってもみませんでした。

旅にまつわるエトセトラーその3 深夜特急

深夜特急(ミッドナイトエクスプレス)は沢木耕太郎のベストセラーで、バッグパッカーの聖書とも言われています。1986年の発売ですが、それまでの聖書は小田実の「何でも見てやろう」でした。

どちらも青年がバックパックを背負って世界中を貧乏旅行する話ですが、旅行の途中で起こる出来事や出会う人たちが生き生きと描かれ、今も色あせることはありません。

私は深夜特急が最初に出て時に買い求め、1・2巻とも夢中で読みました。2巻から3巻の間が数年空き、待ちわびて3巻目を買ったのですが、今見ると3巻がありません。仕方がないのでkindleで買いました。

今まではkindleを読むときはiPad miniを使って読んでいたのですが、たまたま出先でスマホしかなく、仕方なくスマホを使ったら、これがとても読みやすい。字が大きくて行間が広い。1画面に8行なのでめくるのが忙しいのですが、なかなか読み進まない紙の本に比べ、読んだ感があります。

1986年にこのようにして本を読むことになるとは思いませんでした。

今回深夜特急を再読して、なぜこのタイトルをつけたかを沢木耕太郎は本の冒頭に「ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ。」と書いています。

沢木耕太郎は映画「ミッドナイト・エクスプレス」を見てこのタイトルにしたそうです。私もこの映画を最新作として映画館で見ました。麻薬を密輸しようとしてトルコの刑務所に投獄されたアメリカ人青年ビリーが、地獄のような刑務所生活から逃れるため脱獄します。

ただ、私の記憶ではよくある脱獄劇のように長期間穴を掘るとか、計画的に脱獄したわけではなく(それは企てていたけれど結局できなかった)たまたま偶然脱獄できちゃったというラストだったと思います。

〇害した刑務官のダブダブな制服を着て、まるでおしっこを我慢しているようなヨチヨチの足取りで刑務所を出ていく様が印象的でした。

沢木耕太郎は日本を脱出して世界旅行へ旅立つことをこの映画になぞらえて「深夜特急」としたのかはわかりませんが、本の冒頭に↑にあるような文章を載せているところを見ると、示唆はあると思います。

ビリーは刑務所の中で廃人になっていく仲間たちを大勢見ていました。何もしなければ自分も同じ道を歩むことになるのだろうと恐怖の日々でした。刑務所から出られるよう懇願した両親もアメリカ政府もできるだけのことをしてくれましたが、刑期は延びるばかり。深夜特急に乗ることしか道はありませんでした。

地獄のような所から自由な世界へと戻ることを深夜特急に乗るというならば、モラハラの家から避難して自由な生活を送ることも、深夜特急と同じではないでしょうか。

私はこの映画を見て「トルコって怖い所だなー」という印象が強く、なかなか考えを改めることができなかったのですが、エルトゥールル号やイラン・イラク戦争での日本人救出などのエピソードが上書きをしてくれました。

GWでお暇がありましたら、「深夜特急」を一度読んでみませんか?(長いよー)

アマプラで見た「あんのこと」

「あんのこと」というタイトルは知っていました。若い女性が主人公だというのも知っていましたが、それ以上は知りませんでした。

アマゾンがマゾンプライム会員を1カ月無料にしてくれるというので早速ご提案に乗り、アマプラでどんな映画があるのかなとずらずらと探して、特に見たかったわけではないけれど、なんとなくポチして見始めました。

最初はすぐに収まると思っていたコロナ禍が、まさが3年も続くとは思いませんでした。コロナウィルスで亡くなった方は大勢いますが、ウィルスによるものではなく、関連死としてコロナが蔓延したことで起こった生活苦や、家族崩壊、社会不安などによって亡くなった方も大勢いました。

「あん」はそのひとりです。

子どもならば児童虐待防止法により児相の介入などがありますが、20歳を過ぎてしまうとそういった救いの手が届かなくなってしまいます。「あん」は運よく支援の手につながることができましたが、その手を再び切ったのはコロナ禍でした。

見終わってとても切なくなるお話でした。

家庭に居場所がなく、誰かと話をしたい人にBONDプロジェクトは相談の他、具体的な支援体制を整えて困った若い女性の味方になってくれる団体です。親との確執や友だち関係などで困ったら連絡をしてみてください。そいういう女の子を見たら、頼る場所はあるよと教えてあげてください。

多くの方に見て欲しい映画「あなたを抱きしめる日まで」

このところ家にテレビを置かず、そうなると当然NHKの契約もしない人が増えていますが、BSNHKでは時々掘り出し物の番組や映画を放送してくれるので、私はNHKの受信料を払い続けています。

BSNHKで1月11日に放送された「あなたを抱きしめる日まで」はそんな掘り出し物の逸品でした。

タイトルも聞いたことがないのに録画をしたのは、BSNHKが放送するからにはきっと良い作品なのだろうと思ったからです。

1時間38分という短めの映画だし、ぱぱっと見れるかなと思って先日見ました。1度見て、ネットで解説を読み、2回目を見た時に、1回目ではわからなかった布石や謎があちこちにちりばめられているのがわかり、感動が倍増しました。

この「あなたを抱きしめる日まで」というベタな日本語タイトルの作品は、2013年のアカデミー賞作品賞(他)にノミネートされています。

見るつもりだからネタバレが嫌という方はここでご退場ください。

1952年のアイルランド、18歳で行きずりの相手と関係を持ち妊娠したフィロミナは親から修道院に入れられてしまいます。修道院で出産した後は監禁され重労働をさせられ、生まれた息子とは1日1時間だけしか会わせてもらえない日々。

それでもその1時間の逢瀬をを楽しみに、修道院で一番重労働な洗濯作業をしていました。そんな娘たちが他にも10名ほど、同じように出産と労働をしていました。修道院を出るときには1,000ポンドをお礼に置いていかなければならないきまりだったからです。

その仲間のひとりの子どもがどこかに連れていかれると知り、同情していたフィロミナでしたが、その子と一緒にフィロミナの息子も連れていかれてしまいました。

2階の窓から息子の名を叫ぶフィロミナ。それが息子(アンソニー)との最後でした。

それから50年後。1日も息子のことを忘れたことがなかったフィロミナは、その後に生まれた娘に「あなたには兄がいる」と打ち明けました。

その娘はジャーナリストのマーティンに「ジャーナリストならその子どもを探せるのではないか」と頼みます。

英国の放送局BBCを納得がいかない理由でクビになったマーティンは最初は断りますが、編集部にかけあってこのストーリーを記事にすることを約束し、取材費を取り付け、別れた息子を彼女と一緒に探しをします。

「あの子はどうやって暮らしているのか。ホームレスになっているのでは、ベトナム戦争で手足を失っているのでは」と息子の身の上を心配してたフィロミナでしたが、成長した息子は意外な立場にいて。。

というのがこの映画のあらすじなのですが、これが実話だというのだから驚きです。まさに「事実は小説より奇なり」を地でいくような意外な結末。

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映画のマーティンは実在のジャーナリストで、この話を出版したところベストセラーになりました。ただ、映画はフィロミナとマーティンが息子を探すことに焦点をあてているのに対し、原作は息子(アンソニーがマイケルに変名。実在の人物)が共和党の首席法律顧問まで出世しながらも、ゲイであることに苦しんでいたことが焦点となっています(らしい)

フィロミナとマーティンのふたりが掛け合い漫才のようなセリフを応酬しながら真実をつきとめていき、最後はあり得ない場所にたどりつくというラストはまるでミステリーのようです。

息子はすでに亡くなり、残っていたビデオに映っている息子の成長記録に微笑みを浮かべながら見つめるフィロミナの眼差しにはもううるうる。

ともかく1度ではよくわからない部分も2度見ると「ああ、これだったんだ」と気づけるので、ぜひどこかで2度ご覧になってください。