「ホテル」の話

こちらの続きです。

すごい勢いでIT化が進み、最初に入ってきたのは「ワープロ」でした。それまでは「タイピスト」と呼ばれる人が、和文タイプで打ったものを正式な書類として使用していましたが、私の職場ではタイピストがひとりしかいなかったので、いつも順番待ち。彼女の机の上には貢物のお菓子がいつも山のように積まれ、夜のご接待も頻繁にあったようです。

時は流れ、ワープロが数台入ってきてワープロ室なるものができ、書類はタイピストではなく各課がそれぞれ作るようになり、私も上司に頼まれたものをよく作っていました。

最初にワープロの前に座って戸惑うのはキーボードの位置がわからないことです。みんなこれでとても苦労して、いわゆる「一本指打法」で打ち込んでいましたが、私は前の仕事で英文と和文簡易タイプライターを使っていたのでキーボード操作は慣れていますから、あとはワープロの機能だけ覚えれば良い。1日で覚えました。

何でも少しでもやっておくものです。ただ、「クマガイに頼むと早い」と言うことになり、仕事量は増えました。早く仕上げるには他の仕事は後回しになりますから、上司の方で計らってくれ、キーボードに向かう時間が多くなりました。

#打てば打つほどタッチは早くなる。機能も裏技もどんどん覚える。

ワープロの次にパソコンが入ってきて、ひとり1台ノートパソコンが机の上に置かれるようになり、「書類は人に頼まず、自分で作ること。課長職も同様」のおふれが出た時、不思議なものを見ました。

「ホテル」と呼ばれる課長がいました。この呼び名はある日、ホテルが血相を変えて入口のドアにすっ飛んで行ったと思うと、うやうやしく90度のおじぎをした相手はナンバーツーの上司。その血相の変え方と、90度のおじぎがまるでホテルマンのようだったことから「ホテル」と呼ばれていました。上には90度のおじぎ、下には横柄で高圧的な上司でした。

ふと覗いたホテルの部署で、ホテルが両手を白い包帯でグルグル巻きにしています。

「ホテル、どしたの?」と同僚に聞くと

「金属アレルギーなんだって。医者から絶対パソコンに触れないようにって言われたんだって」

「金属アレルギーって、手に触る所はプラスチックじゃん」

「ホテルの肌はすごく敏感で、少しでも金属イオンを感じるとアレルギー反応が出るんだって」

ぷぷっと同僚は笑って、「だからワープロ打ちのものは私がやることになってんの」

「ホテル、文系だからねー」

私たちだって文系だけどねー、やれと言われたらやるよねーと再度ぷぷっと笑いあいました。

それから数か月後のこと。職場にLANが引かれ、インターネットが導入されました。最初は一部だったインターネットはすぐに全員の机の上にあるパソコンで利用できるようになりました。

そしてある日、ホテルの部署を覗くと、白い包帯を巻いたホテルがマウスに手を置き、PCのモニターを凝視しています。

「ホテル、金属アレルギーはどしたの?」
「ネットはいいみたいなのよ」おかしくて仕方がないといった表情の同僚が言いました。

「ネットの見方を教えたら面白くて仕方がないみたいで、金属アレルギー、忘れたみたいなのよね」

その後、ホテルに抗体がついたか、包帯無しでPCに触れるようになり、一本指打法ではありますが、キーボードに触れるようになりました(あれ?

「全員ワープロができるように」とお達しが出た時に修練を積めば、後々まで酒飲みのネタにされるようなことはなかっただろうに、ね。