加湿器2台稼働中

東京はまったく雨の降らない日が続き、乾燥注意報が出っぱなしです。お日様も燦燦で、よく洗濯物が乾きそうなのですが、9時頃に出しても厚目のものは縫い目のところが少ししっとりしている。

部屋干しの方が乾燥した部屋に湿気を与えてくれそうなので、乾ききらないものは一晩部屋干しします。

11月に風邪気味のようになり、それは治ったのですが、現在大流行中のインフルエンザ予防には、部屋を加湿することが効果があるとネットで読んだので、さっそく5年以上使っている空気清浄機+加湿器をつけました。

するとこれについている湿度計が40%台しかない。適正湿度は40%~60%だそうで、70%台になるとカビの原因になるとか。私は乾燥に弱いので、できれば60%近くにしておきたい。

ということで以前寝室用に買った加湿器を動員し、2台稼働させてみました。この加湿器、テーブルの上にちょこんと置こうと楽天のセールで買ったものなのですが、写真で見たかわいらしい大きさではなく、まるで事務所で使うようなドでかいもの。移動させるのも「よっこらしょ」と抱えて動かさなければならない。

「失敗したなぁ」と思っていたのですが、こうやって湿度を気にする生活をしてみると、なかなか使えます。稼働させるとてきめん室内は50%台になり、喉のイガイガも無くなりました。

暖房はエアコンを使うのでさらに乾燥しがち。これからは湿度計とにらめっこしながら加湿器2台をフル稼働させることにします。

森村桂さんはなぜ亡くなったか 5

思春期の頃からずっと後を追ってきた森村桂さんがなぜ亡くなったか。新聞の小さな記事で自〇だったと見た時は「体の弱い人だったから、それを苦にしたのかな。あこがれの人だった桂さんにこういう亡くなり方はして欲しくなかったな」と思っていました。

長い間知ることもなかった桂さんの亡くなる直前の様子を知り、あの若い時のはつらつとした行動力の塊のような方が、無残な状態で亡くなったことに呆然としてしまいました。

最初の結婚の相手とは一生を共に過ごすつもりだったと思いますが、何しろモラ夫だったようです。それでもその頃の女性は「一度結婚したらどんなことがあっても添い遂げる」という考えの人が多く、「離婚は恥」「離婚したら後ろ指を指される」と思っていたようですので、(今もそういう考え方の人は少なくない)離婚してしまったことが大きな心の傷になったことと思います。

この記事を書くためにいろいろとググったのですが、一度目の夫は離婚の際桂さんに財産分与を要求したことが桂ファンの間では「ひどい」と言われています。でも、離婚の時に財産分与を要求するのは当然で、妻から夫へならば容認できるが夫から妻の場合は非難するというのはちょっと違うかなと思います。

結婚してから築いた財産は、たとえそれが桂さんのペン1本で築いたものだったとしても、その多大なる印税は半分相手に渡さなければならないのです。

さて、ある日知人に「私は森村桂ファン」と言ったところ、「私、あの人の最初の旦那さんと一緒に働いていたことがある」と言われてびっくり!ベネッセで一緒だったそうです。

彼女は「あの人(桂さん)は小説家なのよ。事実は本とはかなり違う」と言っていました。ただ、それが前夫は良い人だったという話なら、モラ夫は二面性がある場合が多いので、外ではいい人だったのかもしれません。それがまた妻を苦しめることになるのですが、桂さんもそうだったのでしょうか。

私もそうですが、ハチャメチャな性格だとどうしても「奥さんがひどくて離婚した」と言われがちです。

モラ夫からは日頃「あんな奥さんで気の毒だ」と周りの人から言われるような行動をとるように操作されていますので(マニュピレーター)、もし桂さんの夫が二面性を持つタイプならば、桂さんもモラハラ被害者としての苦しみを味わったことと思います。

何かと桂さんとご縁があると思いたい私ですが、次に書くことは私だけの出来事です。

1980年代のある夜、テレビをつけたまま寝ていて、ふと目を覚ますと画面に桂さんが映っています。どうやらそこは当時ソ連と言っていた場所で、桂さんとロシア人の女性がバレーボールをしていました。

桂さんのナレーションが入ります。

「中学生の頃、バレー部だった私。リスカルはあこがれの人でした。その人と一緒にバレーをするなんて夢のようです」みたいなことを言っていました。リスカルと言えばソ連のエースアタッカー。彼女の破壊的なスパイクは日本チームやテレビの前の日本人を絶望的な気持ちにさせました。

日本とソ連との試合ではアナウンサーが何度も「リスカル!リスカル!」と大騒ぎで叫んでいたものです。そのリスカルと動きはたどたどしいけれど一生懸命パスをしているのは桂さん。なぜ森村桂がリスカルとバレーをしているんだろう?と思いながらまた寝入ったのですが。

あれは夢だったのか何だったのかとずっと思っていたのですが、この記事を書くためにいろいろリサーチをしていたら、桂さんはテレビの企画でソ連に行っていたことがわかりました。であれば、私が夢のように見ていたのはそのテレビ番組である可能性が高い。

これを確かめるために今「ソビエトってどんな国?」という本をアマゾンで買ってただいまお取り寄せ中です。もしあれが夢でなかったら、私が動く桂さんを見た最後の姿になります。

長い私の森村桂さんへの思いを読んでくださってありがとうございました。森村さんが愛した軽井沢のティールーム「アリスの丘」は西荻窪に自宅と一緒に三宅さんが相続し、亡くなった後共産党に寄付され、共産党はすぐに不動産会社に売却し、更地にしたそうです。

森村ファンならば、できれば記念館でも作ってもらいたかったところですが、ファンも高齢化して先細りが見えていますから、土に返すのがよかったのかもしれません。

「天国に一番近い島」を書いた人は今何の苦痛もなくなり、天国からニューカレドニアを眺めていることでしょう。60年代70年代に彼女の書いた本に魅了された人たちは、今もなお夢に向かって突撃する桂さんに倣い、「扉は叩けば開く」の精神を受け継いでいます。

森村桂さんがいなかったら、今の私はなかったと思う。

私にとって偉大な恩人です。

森村桂さんはなぜ亡くなったか 4

桂さんが狂気の世界に追い込んだ犯人は誰だったのか。ネットをググるとそれはこの本の著者である三宅さんだと名指しする人もいます。

あるものを他方から見れば悪いのはこちら側ということはあると思います。ただ、三宅さんはこの不安定な精神を作った元凶は桂さんの母親の存在だと全編を通して書いています。

ここに書きましたが三宅さんは長々と「人は~らしくあるべきだ」と書いています。~らしさとは「女らしさ」「男らしさ」「子どもらしさ」に通じ、そうであるべき姿を決めつけているようで、最初にこの部分を読んだときは強烈に違和感があり、その~らしさの部分を飛ばして読みました。ものすごく抵抗感がありました。

ただ、なぜ三宅さんが「~らしくあるべき」と書いたのは、桂さんの母親がおよそ桂さんにとって港になりうるような優しく、力強い人ではなかった、だから桂さんの母親に「あなたが母親としての責務を果たさなかったために桂は精神を病み、自ら命を絶ったのだ」と言いたかったのだと思います。

三宅さんがそう思ったのは精神科医からの言葉でした。

”「赤ちゃんは不安の固まりとして生まれてきます。取り上げた看護婦さんが『お母さん、抱いてあげてください』と言うでしょう。あれは今まで聞こえていた母親の心臓の音を再び聞かせることで、赤ちゃんが安心を覚えるのです。そして三、四歳まで、赤ちゃんが不安がれば『おお、よしよし』といいながらあやしていく、しつけていく。その時期はそのように赤ちゃん中心の家庭になるのです。ところが、そうでない家庭がある。母親が生きていれば、まず育てる権利と義務は母親に属します。ところが、その義務を果たさない母親がいるのです。そういう母親によって育てられた子どもは、精神的な疾患の根拠をそこに持つ場合があるのです。森村さんはそういう方だと思います」

その説明を聞きながら、私は思わずうなってしまいました。その話が図星だと思えたからです。そして私からの説明として、桂が亡くなった父に代わって、母親の夫役を務めることに決めて、今日に至っている旨を医師に話しました。そこでI医師は仰天して叫ばれました。

「それが桂さんの病気の原因です。他家に嫁ぎ、妻になった娘に母親の夫役が務めりますか?」と。「残念ながら私の力では森村さんは治せません」”

森村桂さんの多くの著書の中にはお母様が始終出てきます。お母様は「桂ちゃん」と呼び、桂さんは「オフクロ様」と書いています。とても仲の良い母娘のように読んでいたのですが、実際のところ、三宅さんから見て桂さんはとてもお母様に気をつかっているように見えたそうです。

ふりかえって私の場合、母は何も許してくれない、母の望むような娘でなければ笑顔を見せてくれない、母の笑顔を見たいがために必死に努力していた娘時代が私にもありました。

母は心を許せる相手ではなく、常に「~しろ」「~するな」という命令しか向けてきませんでした。母との会話は私への命令と自分の自慢、他人の批判しかない。桂さんの場合、さらに亡くなった父に代わって生活の面倒を見るという重大な任務を負うことになります。

小さな頃から桂さんのお母様は歌人としての仕事を趣味の世界に明け暮れ、親として子を養育するという任務をほとんど果たしていなかったようです。

精神科医は「桂さんが狂気に走る原因になったのは母親の愛情不足と、ないものを欲しいとすがりつく娘の関係」だったと説明したしたことに、三宅さんは合点がいったのです。

私と桂さんは愛されていたのは父親からで、母親は愛情の受け手にはなるけれど、注ぎ手にはなれなかったという点で一致しています。更にふたりとも夫がモラ夫で離婚もしています。

ただ、私の場合は三下り半をつきつけたのは私で、桂さんは相手からつきつけられたという納得のいく終わり方ではないことが違います。同じように母親に対しても、最後の最後まで桂さんは母を棄てませんでしたが、私は娘という立場は全うしますが、愛情がどうたらというものは求めもしませんしこちらからも差し出しません。ないものを求めてもしかたがないというのは長い年月でしっかりとわかっていますから。

納得のいかない離婚をした桂さんは再婚し、また新しい人生を再スタートさせたように見えますが、その離婚の痛手は大きく、三宅さんは癒しきれていない傷を負ったまま、さらに母との関係を断ち切れないという精神的に不安定な人と一緒に25年を過ごすことになりました。

続きます。

森村桂さんはなぜ亡くなったか 3

若い頃は「森村桂 ~ へ行く」という旅エッセイを連発ヒットさせていましたが、その後「お菓子とわたし」など、ケーキづくりや、それに旅をプラスさせた作品が多くなりました。

1回目の結婚の時は作品に時々ダンナ様も登場し、桂さんを侮辱するような言葉を投げつけていましたが、それは仲がいいから遠慮がないのだと私は思っていました。でも結局破局。三宅さんと再婚することになったのですが、桂さんは以前のように文章を書けなくなっていました。

そんな桂さんは軽井沢にテラスのある物件を見つけ、桂さんは三宅さんに「お父ちゃん、買ってくれ」と言います。その物件は三宅さんが趣味の大工仕事をするために買おうと思っていたもの。

ちなみに三宅さんはビクターエンタテイメントという華やかな会社にお勤めでしたが、その収入は結婚した桂さんが「あまりの少なさに驚いた」という額で、実際生活費として渡されたのは5万円だったと言います。今と物価が違う1979年当時とは言っても、華やかな業界の割には少なすぎる収入のようでした。

その三宅さんが、「趣味の大工仕事をするために軽井沢の家を買おう」というだいそれた考えを持てたのはひとえに桂さんの収入があったからでしょう。

ただ、結婚して専業主婦になった人が、夫が出世して収入がぐっと上がり、ビジネスクラスの海外旅行に行っても何のお咎めもないように、妻をサポートして彼女の能力を引き出し、その結果収入が上がったというならば、前者と同様に贅沢をしても許されるのではないかと思います。

その家を三宅さんと桂さんはお得意のケーキを焼いて提供するティールームとして開店しました。実は我が母はこのティールームに行ったことがあります。私が読んでいた桂さんの本を彼女も読むようになり、特にお菓子の本が彼女のご贔屓でした。

母が「軽井沢の森村桂の店に行ってきた。お土産にジャムをもらった」と得意げに話したことがありました。おそらくは母いつものように「娘があなたのフアンで(母は英語ができないのでファンと言えない)」などと、大騒ぎで盛りに盛って話したのでしょう。

「一度も旅行になんか行ったことがない」と言う割にはあちこちに行っています。

お店を軽井沢で開いたことで、桂さんは軽井沢に骨を埋めることになりました。三宅さんの本の第五章は亡くなるまでの桂さんの様子が記されています。

その五章は桂さんは指圧依存症だったというところから始まります。以前から桂さんを慕っていろいろな人が寄ってきていましたが、その中には桂さんのお金目当ての悪い人ももいて、「タダで指圧をしてあげる」と騙し、実際は料金を取ったり、あまり彼女にとってよくない相手もいたようです。

その指圧依存も24時間指圧を受けたがるなど、常軌を逸するようになり、次第に精神を病んでいきます。離婚がきっかけだったのか、元々不安定だったものが入院レベルになるのですが、さすが有名人。著名な医療関係者が桂さんに手厚い治療を施しましたが、レントゲンを撮ると放射能を浴びて尿が出なくなるといった妄想がとらわれるようになり、その妄想で周りの人たちが振り回されるようになっていきます。

最後に桂さんを看取った精神科医は言います。「桂さんのあの性格は治りません。そして森村さんの性格のことであなたが責任をとることはないのですよ。森村さんのことは森村さんが責任をとるべきなのです」そう言って三宅さんが桂さんから離れることを勧めます。

自〇未遂を1回して、その後、本当に亡くなるのですが、その精神科医は桂さんがそのような性格になったのには大きな理由があると三宅さんに告げていました。

続きます。

森村桂さんはなぜ亡くなったか 2

森村桂さんの著書一覧を見ると、私はほとんど読んでいました(結構びっくり)。ただし、桂さんのノンフィクションエッセイはとても面白いのですが、フィクションは面白くないので読んでいません。

著書の中には「結婚志願」とか「ああ結婚」、「それゆけ結婚」など、結婚をテーマにしたものが多くあります。今手元にないので細かくはわからないのですが、桂さんは年頃になったら結婚しなければならないと強く思っていたようです。

あの時代の方にしては珍しいほどの行動力をお持ちなのに、「女は年頃になったら結婚せねばならぬ」「結婚したら子どもを産まねばならぬ」「女は家で上手に料理を作らねばならぬ」という、ものすごい固定観念がありました。

あの突拍子もない行動力はおそらくADHDだったのではないかと思いますが、常に動いていなければ気が済まない衝動と、古風な女の生き方をせねばならぬという思いが混在していたようです。

それが前に書いた三宅さんのいうところの「らしさ」を強要されたのではないかということも想像できるのですが、三宅さんは桂さんのハチャメチャな所に魅力を感じ、まるで保護者のように寄り添っていたと同時に、彼女に商業的価値を見出し、そちらのプロデュースにも励んでいました。

この辺りが「金目当てに結婚した」と言われる所以かもしれません。

そういえば森村桂と言えば一時はベストセラーを連発し、ワイドショーの司会もして、飛ぶ鳥を落とす勢いの作家でした。今と違ってベストセラーと言えば百万部単位で売れた時代。言われればそうですが、相当のお金が入ってきていたはずです。

最初の結婚相手の方は冒険家で、桂さんと結婚すると仕事を辞め、エベレストだヒマラヤだと雪男を探しに行く人でした。その費用はおそらく桂さん頼みだったでしょう。彼女もそれをネタにして「ダンナさまヒマラヤへ行く」、「ふたりと一匹 ダンナさまヒマラヤへ行く」と書いていました。

そのダンナ様から突然離婚を言い渡され、絶望の中をさまよいボロボロになった状態を描いたのが「それでも朝はくる」でした。

桂さんは古風な考え方の持ち主ですから、一度結婚したらその人に一生添い遂げるつもりだったのでしょう。たとえその人がモラハラ夫だったとしても。

その出来事が起こる前は「ダンナ様」と呼びながら、一生懸命彼に尽くしていた様子が数々の著書に中に記されていますが、そのダンナ様は別の女性と家庭を作るという形で終わりを迎えました。ひとり残された桂さんは地獄の苦しみを味わいます。

「結婚はりんごの片割れと出会うこと」と幾度も著書の中に書き綴っていたのに、相手から捨てられるという形で終わってしまった結婚。

三宅さんの著書によるとこの本のタイトルは最初は「離魂」だったそうで、それを三宅さんはこの「それでも朝はくる」というタイトルに変えたそうです。

「それでも朝はくる」

「Tomorrow is another day」

どんなに今が絶望の日々であっても、「それでも朝はくる」

この言葉が、いろいろな絶望の中にいる人たちをどんなに励ましたことか。この本は桂さんの久々のヒット作となりました。

続きます。

森村桂さんはなぜ亡くなったか

先日の夜、なかなか寝付けないので本でも読むかと本棚を見て、「しちめんどくさい本は読みたくないな、軽いものはないかな」と探したら、森村桂さんの本がありました。

「お隣さんお静かに」

桂さんが大学生の頃お父様が亡くなり、生計のためにアパートを建てた話です。

私は高校生の頃、森村桂さんの本を読み漁りました。新品は高くて買えないので、私が持っている本のほとんどは古本屋で買ったもので、この本はその中の1冊です。

「お隣さんお静かに」を読んでいると、無性に他の本も読みたくなり、そばにあった「お菓子とわたし」にも手を伸ばしていました。

私はよく「行動力がありますね」と言われますが、それは多感だった頃、むさぼるように読んだ森村さんの影響が非常にあります。

行きたいとなったら行く、欲しいとなったらなんとしても手に入れたい。その思いに引きずられるように周りの人を巻き込むのですが、巻き込まれた人たちも迷惑とは思っていない。彼女のために一生懸命尽くしてくれて、思いが遂げられると一緒になって喜んでくれる。

彼女のストーリーは大抵ハッピーで終わるように、私の突進も多くの成果がありました。

そんな森村桂さんが亡くなったのは、「モラハラ同盟」を始めた翌年、新聞に「森村桂さん〇亡」の記事が出て、私もパブに「ショックです」の書き込みをしました。

体の弱かった方なので、それを苦にして自〇なさったのかなと思っていました。先日ふと、「森村桂 〇因」で検索をすると、夫である三宅一郎さんが亡くなった時のことを書いて本にしていることを知りました。早速図書館にリクエストを入れ、読みました。

1回目の結婚が夫から離婚を突きつけられるというショッキングな出来事で相当傷ついていた桂さんに、周りの方たちがなんとかしようとお見合いの話を持っていき、実際にお見合いして結婚したのが三宅さんです。

三宅さんは桂さんの保護者のようによりそい、最後は狂気の世界に行ってしまった森村さんに最後まで尽くしたと本に記されています。

ただ、三宅さんが書いている中で違和感がある部分があります。「人には『らしさ』というものが必要だ」という部分です。三宅さんがそれを求めたのは桂さんの母に対してでした(と読めます)。

桂さんのお母様はいろいろと問題のある母親でしたが、一番母親らしくなかったのは、子どもに対する愛情が欠如していたという部分です。お嬢様のようで生活力がまるでない、お金があってもなくても使ってしまう。

桂さんはお父様が亡くなった後、大学生でありながらこの生活力のない母を抱えて一家の主として働かねばなりませんでした。しかし、この母は子どもが小さな頃から母親としての実務も愛情も中途半端だったらしく、桂さんは愛情不足のまま母に対する責任だけを持って家を守ることになったのでした。

長くなりそうなのでいったん切ります。

ブラックマンデーで怪しいメールが来た

現在あちらこちらでブラックマンデーが開催されていますが、一昨日アマゾンから「荷物が発送されました」とメールが入っていました。

「怪しい」と思ったのは、そのアドレスはアマゾンに登録していないアドレスだったからです。メールの中身は発送番号やら、それらしきことが書いてあり、「ブラックマンデーで買ったものが発送されたのかな?」と思ってうっかり開いてしまいような仕様です。

ただ、書いたとおりアマゾンに登録していないアドレスに来たことと、だいたい

アマゾンにまだ注文をいれていないから、発送連絡なんか来るわけがない

このあたりは実際にアマゾンの注文履歴を見に行って、荷物が現状どうなっているのかを確認した方がよいと思います。

通販を使う機会が増えているので、通販用のアドレスを作って、通常使っているアドレスと分けるというのも詐欺に引っかからない工夫かなと思います。

結婚式で投げるもの

友人のお子さんが結婚式を挙げました。とてもすてきな結婚式だったそうで、写真を沢山見せてもらったのですが、その中に「熊のぬいぐるみを後ろに放る」というのがありました。

ブーケトスというのは知っていましたが、今どきはクマも放るのかと元ブライダルプランナーの友人に聞くと

「ブロッコリーも投げるよ」

「ブブブブブロッコリー???」「ブロッコリーって、あの緑色したブロッコリー?」

「そうそう、そちらは花婿が投げるの」

そんな初耳なことを聞いたので、早速ググってみたら、本当にありました。

https://wedding.mynavi.jp/us/article/70692/
ブロッコリートスってどんな演出? 

花婿が参列者の向かってブロッコリーを後ろに放るんだそうです。なんでも放るんだな。

「結婚式では『ウエルカムベア』と言って、クマのぬいぐるみを入り口に置いて飾ったりしますよ」と友人。

入り口にクマを置くんかい。今は入り口にクマは置かない方がいいと思うけどな。

血液検査でのひとこま

年3回行く大きな病院では年1回検査を受けます。その一つは血液検査。

看護師さんが「痛かったら言ってくださいね」と言うので、痛いと言ったら何かしてくれるのかと思って「痛いです」と言ってみました。

#ぶっとい針を刺すんだから痛いに決まってるやん

看護師さん無言。

痛いと言っても何も言っても、してもくれませんでした。

だったらなぜ「痛かったら言ってくださいね」と言うんだろう。

何かしてくれるのかと思って期待するやん。。。

ハイドロコロイド 絆創膏

ハイドロコロイド 絆創膏とは何ぞやと思われた方。キズパワーパッドの他社製品と思っていただければよろしいかと思います。

「キズパワーパッドは高いので、これを買って使ってるわ」という友だちから聞いて私も買ってみました。

https://amzn.to/47nQvlP
ハイドロコロイド 絆創膏 3枚入 フリーサイズ

これはキズパワーパッドのようにカットバン形をしておらず、全面絆創膏になっていて、傷の大きさに合わせて切って使うものです。

ただ、そのまま貼っただけではお風呂に入ったりするとはがれてくるので、私は100均のサージカル絆創膏を上から貼っています。

段々サージカル絆創膏がはがれてくるので、はがれてきたところを切るか、もう一度上から貼りなおせばOK。

年をとると治りが悪くなるので「みるみるすぐに治り」はしないのですが、数日でムズムズとかゆくなってきます。指でごしごしこすりながら(多分良くない)かゆみをやりすごし、2週間で傷口もきれいなピンク色になりました。

家に一箱あってもいいかなと思う医薬品です。