選択制夫婦別姓制度への長い道のり

先日選択制夫婦別姓のシンポジウムに足を運びました。私自身は姓とは人を区別するための印ぐらいにしか考えておらず、アイデンティなどもなく、割とどうでもいいという程度の認識です。

ただ、姓を変えることで起こる面倒な手続きや、変えたことによって「〇〇家の人になった」的な思い込みや勘違いがたくさんあることは嫌だなとは思います。

特に仕事をしていると姓を変えたことをいちいち人に説明せねばならず、それが結婚によりだったらニコニコと話せますが、離婚による場合は言う方も聞く方も不穏な雰囲気がただようことになってしまいます。

実際結婚で姓を変えた時は旧姓婚姻性の相関がわかるような書類を持ち歩いていたものです。

クレジットカードや銀行口座やパスポートや今はマイナンバーカードなど、姓を変えるといろいろなものを変えなくてはならず、今まで自分が築き上げてきた実績が無くなってまいます。「鈴木は佐藤に変わりました」言っても、自分が作り上げてきたものすべては社会的には認知されません。

#それができたのはユーミンくらいじゃないだろうか

シンポジウムでは妻の姓に改正したサイボウズの青野慶久さんのことが取り上げられて、「改正するとどんなに経済的、社会的、精神的に疲弊するか」について書かれた本の紹介がありました。

この青野さんがなぜ選択制別姓の裁判を起こしたかについて書かれたページがあります。

https://note.com/change_jp/n/nf0f6ff15ae68

青野さんは強い信念や希望があってこの運動をしたわけではなく、なんとなく妻の姓にしたら大変なことだらけで、これは夫婦が同じ姓でなくてもいいのではないか、それがダメなら選択制別姓にした方がいいんじゃないだろうかと思ったそうです。

私も姓に関してはこれから変える予定はないので、それほど熱を入れて見ていたわけではないのですが、なぜ選択制別姓が裁判で否決されてしまうのかを読んでみたら、これは共同親権を進めようとする輩と同じ穴のムジナなんだと思いました。

さらに、ググってみたらこんなものが。

https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/173/yousi/yo1730602.htm

「選択的夫婦別姓の法制化反対に関する請願」

これを読んでムラムラ~!と来たのですよ。

”別姓を望む者は、家族や親族という共同体を尊重することよりも個人の嗜好(しこう)や都合を優先する思想を持っているので、この制度を導入することにより、このような個人主義的な思想を持つ者を社会や政府が公認したようなことになる。現在、家族や地域社会などの共同体の機能が損なわれ、けじめのないいい加減な結婚・離婚が増え、離婚率が上昇し、それを原因として、悲しい思いをする子供たちが増えている。”

夫婦が別姓になると、離婚が増えて子どもが悲しい思いをし、

”一体感を持つ強い絆のある家庭に、健全な心を持つ子供が育つものであり、家族がバラバラの姓であることは、家族の一体感を失う。子供の心の健全な成長のことを考えたとき、夫婦・家族が一体感を持つ同一の姓であることがいいということは言うまでもない。”

同姓でないと強い絆が作れないという。

ちなみに辻村先生の講演で場内が嘲笑と共にどよめいたのは、「夫婦同姓しかないのは現在日本とインドのヒンズー教、ジャマイカの一部だけです」でした。

夫婦の姓についてはどこの国も論議の的になっており、それぞれの国があれやこれやと方策をしていたはず。そして今はもうインドのヒンズー教とジャマイカの一部しか同姓は残っていないとのこと。

日本がうかうかしているうちに、よそ様は先に進んでいたのです。

青野さんの話にも辻村先生の話にも同じことがありました。

「政権が変わらなければ選択制夫婦別姓は進まない」

あの請願書にあるような「夫婦が同姓でないとけじめのないいい加減な結婚・離婚が増え、離婚率が上昇し」というどこの世界のどの時代の話かと思うようなことを堂々と掲げる政党が政権を握っているうちは変わらない。

インドのヒンズー教やジャマイカの一部とご一緒に、日本人は暮らさなければいけないのだなぁ。