Capter1 オマエ、何とも思わないか?
今考えてみると、なぜ私が夫と結婚したのか、答えははっきりしていた。母は小さな頃から私を愛さず、「お前は嫌な子だよ」「父親似のお前の顔を見ていると腹がたつ」と私を否定し続けていた。 私は母から愛されたいと一生懸命勉強し、母の賞賛を期待するが「もっとがんばったらもっといい成績だったのに」とそれを認めてはもらえなかった。
母との生活が嫌だった。 母の口汚い言葉を聞くのがたまらなく嫌だった。この家を出るには、母から離れるには結婚しかないと思っていた。 幼い頃からの貧乏暮らしで、お金のない辛さはいやというだけ体験していたから、安定した職業と経済力は三高のうち、一番優先順位が上だった。だから知人の紹介で夫と会った時も、これが「白馬の王子様」でも「運命の赤い糸の相手」とも思わなかった。
もしこれが打算的だと言われ、だから幸せになれないのだと後ろ指を指されるならば、男性が結婚相手を求める時、帰ったら沸いている風呂や清潔な部屋と寝具、朝起きたときに鼻をくすぐる味噌汁の匂いを夢見ているのと、どれ位差があるのかと尋ねたい。
夫は経済力も名刺を渡しても恥ずかしくない職種についており、結婚相手としては特に欠点はなかったし、誰に対してもとても優しかった。私は猫を被って相手に気に入られようとする気持ちがまるでなかったので、お姫様にでもなったようになんでも好きなことが言えた。ただ一度だけ、どうでもいいことで口論になったことがある。 その時の彼の顔はいつもの温和な表情とはまるで違っており、私はあっけにとられその場を去った。翌日、「悪かった」と彼から電話が入ったが、私はすぐに返事が言えなかった。何かが違う、とは思ったが何が違うのかはわからない。でも結婚式はもうすぐ目の前に来ていた。スペースシャトル出発の秒読みが始まっているのに、どうして今更「やめた」と言えるだろうか。「これはよくあるマリッジブルー」と思うことにして、小さなシミのついた心をなるべく見ないようにした。
無事に結婚式も終わり、海外への新婚旅行に出かけた。私は旅行が大好きだったので小金を貯めては何度か海外旅行に行ったことがある。しかし夫は初めてのため、終始私がリードをする旅行4日目頃、夫の様子がおかしくなった。明らかに不機嫌なのである。友達と長い旅行に行くと、疲れから普段なら気にならないことが原因で不和になったりする。「疲れたんだろう」と気遣いつつも、 不機嫌な連れ合いを少々もてあましてもいた。
私は結婚してからも働くことは夫も了承していたし「私も働いているんだから、家事は手伝ってね」と結婚前に約束していた。「私が料理をつくる日は、あなたが後片付けをしてね」と家事分担の話し合いもしていた。 1日目、夫は皿洗いをした。しかしその日だけだった。翌日、食事が済んでも夫は立ち上がらず、テレビを見ている。「お皿洗って」と言っても、不機嫌そうに知らんふりしている。その不機嫌な様子は、それ以上私が要求するのを決して許そうとしない 断固たるものだった。「私が洗えばいいことなんだ。皿洗いくらい、大したことじゃない」そう自分に言い聞かせて私が洗った。その習慣は19年後の今も続いている。
約束と言えば、私は「4年に一度は海外旅行」の約束もしていた。しかし、夫は「飛行機恐怖症」だった。新婚旅行は「死ぬ気で乗った最後の飛行機」だったそうだ。夫は約束なんか守る気は最初からサラサラなかったのである。 もちろん私も長い間生きているわけだから、結婚前の約束なんて全部守られるとは思っていない。でも毎日が3日に一度、4年に1回が10年に1回になる程度だと思っていた。 私を手に入れるため、夫は守る気もない約束を次々としたのである。
結婚前、夫は私に「俺は親父のようにはならない」とよく言っていた。と言ってどういうことがあったかというような具体的な話は何もしない。「ただ親父のようにはならない」をきっぱり言う。私の小さい頃の話をすると、それは自然に父が自律神経を病み、酒乱になって暴れまわる、 という話になる。私はそこから私を理解して欲しかった。私の性格の原点はそこから始まるのだから。しかし、夫は話を聞こうともせず「俺は親の悪口を言うやつは嫌いだ」とそっぽを向いた。私たちはいまだにお互いの過去を知らない。 どこで生まれ、どこでどう育ったか、学校時代の友人の話、なんにも知らない。そして夫は「親父のようにはならない。ふたりで助け合って生きていこう」と言った。 よもや結婚後「オマエはおれと同等だと思うなよ」などどいうセリフを聞かされるとは夢にも思わなかった。
結婚して2週間目頃、突然夫が口をきかなくなった。不機嫌そうにテレビを見たり、新聞を読んだりしている。私も最初は「どうしたの?」と話かけたりご機嫌をとったりしていたが、 一向に直らない。不機嫌なまま朝起き、一言も言わずに家を出、また一言も言わずに寝る。そんな日が3日続いた。食事の後片付けをしていると、いきなり後ろから声がかかった。
「オマエ、なんとも思わないのか?」
なんとも思わないのか、といきなり言われても何のことだかわからない。
「え?」
「なんとも思わないかと聞いているんだ!」私はうろたえた。
なんだろう?なんだろう?なぜ怒っているんだろう。
「オマエ、俺の親父になんて言った?」
「は?」
数日前、新婚旅行のお土産を置きに夫の実家へ行き、酒好きの義父には洋酒を置いてきた。その時私は「これ、日本で買うとすごく高いんだけど、海外だからとっても安く買えたんですよ」と渡していた。
「オマエ、俺の親に恩を売る気か!」
新婚2週間目、夫の不機嫌の原因はこれだった。 私が何気なく使った言葉がここまで人を激怒させるのか。それほど私がしたことは大変なことだったのかと、夫に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
私は言動を注意することを約束した。そしてそれからこの「なんとも思わないか?」は私を責める時に使う キーワードになったのである。
結婚1ヶ月目、給料日がやってきた。夫が私に給料を手渡し、私がやりくりするんだワ、と心密かに思っていた。ずっと貧乏だったから、やりくりは慣れている。 お金を貯める術も、増やす術も心得ていた。 「お給料は?」 手を出すと、肩をそらして夫は言った。
「なんで金を稼いでいるオマエに、金を渡さなければいけないんだ」
夫の言い分はこうだった。家賃も光熱水費も自分が払っている。だから残りの部分は私が出すべきだ。
確かに光熱水費も家賃も夫が払っていた。でも家賃と言っても古いアパートだったので普通の相場の半額程度。 夫の住宅手当で充分カバーできる金額だった。電話が嫌いだから電話代はほんの少し。光熱水費は全部基本料金だった。 「俺が家計を預かるからオマエ、給料を全部よこせ」今度は夫が手を出した。
私は子供の頃、自分のこらえきれない感情を酒に費やす父のため、家はとことん貧乏だったから小遣いなるものはなかった。 学用品など必要なお金をもらおうと母に言うと、必ず母は般若のような顔になって「金食い虫!」と怒鳴った。 「金食い虫」も「ごくつぶし」と言われるのはもう沢山だった。 そして父は私と口論になるといつも「誰のおかげでメシが食えると思ってんだ!」と怒鳴った。 だから私は母に小遣いをもらわなくてもいいように早くからアルバイトをし、自分の使うお金は自分で稼いできた。 私が結婚後も勤めをやめようと思わなかったのは、この言葉を二度と聞きたくなかったからである。
夫の今までの言動をみると、生活するのに十分なお金をもらえるとは到底思えなかった。 きっとぎりぎりのお金を渡され、その中でできなければ小言をつかれると容易に想像できたから、私はお金を夫に渡すことを断固拒んだ。 そしてそれは今現在も続いている。私は夫からお金をもらえるのは盆暮れの準備のためにともらう1万円だけである。 ボーナス時には「貯金してやるから全部出せ」と言われた。これは死守せねばと思い、渡さなかったところ、とたんに口をきかなくなった。 しかたなくボーナスを渡すと「必要なときは言えよ」と持って行った。 しかしその後、「○○が欲しいのから、お金、出して」と言うと、「そんなものいらん!」と怒鳴られた。 私は私が住む部屋と光熱水費を年2回、夫に渡していることにした。そう思うことで諦めることしか、私には方法がなかった。
いったい誰が私の言うことを信じてくれるだろうか
Capter2 「堕ろしてこい!!」
結婚するとすぐ夫の数少ない友人がふたり、毎週末にゲームをしにやってくるようになった。せっせともてなしをすれば夫は上機嫌になる。来なければ機嫌を取ることができないので私は客が来るのが嬉しかった。私はもう、夫の顔色を伺う癖がすでについていた。夫は部屋を一歩出れば私が結婚前に知っていた、温厚で優しいよく気のつく朗らかな人に変身するが、私とふたりでいるときはそうではなかった。もちろん夫婦なんてそんなもの、家にいるとき位は素の自分に戻りたいという気持ちはよくわかる。しかし、私たちは結婚してまだ1ヶ月なのに、もう10年も連れ添った夫婦のように夫の機嫌を伺っては一喜一憂する疲れた妻になっていた。
夫の職場は徒歩で10分のところにあり、私はバスで通った。私の仕事が終わるのが5時。帰ってくるのは6時すぎになる。夫もその頃に帰ってきた。そして夕飯の準備を私がやり、夫が洗うはずだった食器を洗った。ある日、夫が「会議があるので遅くなる」と言うので帰りに大きなスーパーに寄った。家に帰ってきたのは6時10分を過ぎていた。 玄関に入ると、夫がこれ以上ない不機嫌な顔で夕食を作っていた。「あれ?会議は?」返事はない。大きな音をたてて食事をつくり、一人分の夕食をつくるとガツガツと食べ始めた。「会議があるっていうから別のスーパーで買い物をしてたのよ。いろんなものがあって・・・」全部言う前に夫はドンとテーブルを叩いた。「オマエは俺が遅くなるとメシも作らないのか!!」
私は必ず6時前には帰ってきて、夕食の支度をするようになった。終業時間になると靴を半分突っかけ、大急ぎで職場を後にした。幸いその時は時間通りに終わる課だったので問題はなかったが、その後人事異動で代わったのは残業の多い課だった。5時を回っても片付かない仕事を抱え、ペンを握る手が震え、青ざめていくのが自分でもわかった。半年後、降格に近い形でまた異動があった時は正直ほっとした。
ある日曜日、夫は友達と遊ぶため外出をしていたので、私も友達と外で会っていた。午後になって雨が降り出したが、夫の友達は車だろうから送ってもらえるなと安心して友達とおしゃべりをした。夕食の準備をしなければならないからと友達と別れ、家に帰ってくるとびしょびしょになった夫が憮然として部屋に突っ立ていた。私に電話をかけて迎えに来てもらうからと友達を返し、何度も電話をかけたが私がいないので歩いて帰ってきたという。
「どこにフラフラ出歩いているんだ!!」私は日曜日に出かけることを諦めた。夫とだけ外出することにした。
そんな生活が3ヶ月続いた頃、友達から「ダンナの言うなりになっちゃダメよ!最初が肝心なんだから。どーんと実家へ帰ちゃいなさい」と言われた。怒鳴るだけならばともかく、ちょっとしたことで口をきかなくなる性格には私も我慢できなくなっていたから、「実家へ帰ります」と置手紙をして実家へ帰った。もちろん別れる気などサラサラなく、ちょっとした脅しのつもりだった。実家に一晩泊まって家に帰ってくると、きちんと掃除されたテーブルの上に離婚届が置いてあった。私はぞーーーと総毛立ち思わず紙を破いた。
確かに夫は結婚前とまるで変わってしまった。しかしまだ3ヶ月だ。たった3ヶ月で離婚などということになったら、私の職場でのメンツは丸つぶれだし、実家の母がヒステリックに叫ぶのも目に見えていた。やがて夫が帰ってきた。「ここにあった紙は?」「破いた」「俺は別にいいよ。別れても」「嫌だ」白旗を揚げるのは私でしかなかった。
そして子供ができた。
子供ができれば変わるんじゃないかと思っていた。もともとは優しい人なんだし、テレビによくあるように妻のお腹をなでで「パパでちゅよー」なんて言うんじゃないかと思っていた。 やがて悪阻が始まり、倦怠感、微熱、吐き気で私は動けなくなった。ある日夕飯を作らなければならないのにどうしても体が動かない。あと5分、あと3分、と冬の朝のように1分伸ばしにしていると、夫が立ち上がった。やがてじゅうじゅうと音がし、いい匂いがしてきた。 よかった、夫が作ってくれるんだ、と思って横になっていると、一人分の皿を持って夫がキッチンから出てきた。「あれ?私の分は?」 悪阻を経験したことのある人ならばわかってもらえると思うが、悪阻でもお腹は減るのである。お腹は減るが、作る気力がなくなってしまう。ワガママと言われてしまうかもしれないが、実際そうなのである。
「食いたかったら自分で作れ!」ガツガツとかっ込むと大きな音を立てて皿を台所に置いた。どうやら夫の中では妊娠して苦しんでいる私と、自分の女中である私は同一ではないようなのである。悪阻で苦しんでいるのは同情もし、心配もするが、だからといって家事を手抜きするいいわけにはならないというのが夫の考えのようであった。しかし、実際は悪阻で苦しむことと家事ができないことは同系列で考えてもらわなければならないことなのに、夫にはこれができなかった。
これは夫とつきあっていく上で大きなポイントだった。私が病気になるとそれなりに心配はしてくれる。しかし家事を手抜きすると、その罰は下された。病気になったら寝ていてもいいが、家事の手抜きは許さないのが夫の姿勢だった。熱の出る病気になると私は病院から座薬を処方してもらって痛みと熱を取り、無痛の間にしゃかりきになって家事をやり、知らんふりして寝た。病気をしたというだけで口をきかなくなる時もあった。私は病気になることが許されなかった。
がんばってもがんばってもお腹の子は私を許してはくれなかった。それでも掃除、洗濯と家事は休まなかったが、どうしても食事作りが前のようにはいかなかった。味見すらすることができない。辛くて辛くてキッチンにいると夫の声が飛んだ。「メシも作れないなら堕ろしてしまえ!堕ろしてこい!!」
夫は「実家に帰ってるのか?帰ってこいよ」と声をかけてくれることもあった。ではと、実家へ行ってくると機嫌が悪い。これが2・3回続くと、いくらカンの悪い私でも気がついた。夫の言っていることはリップサービスなのである。 そして外では「できるだけ実家へ帰れって言ってるんですけどね」と微笑みながら話をしていた。そうしたら隣で私も「でも忙しいし」と同じように微笑むしかなかった。この答え方は満点だったようで夫の機嫌はすごぶるよかった。
同じように一生懸命働いていると「疲れたろ、少し休めよ」と言ってくれることもあった。では、と休むと次第に機嫌が悪くなる 。 「ここが片付いていない!ここが汚い!」と怒号が飛び出す。「休むんならやることをやってからにしろ!」と怒鳴られる。結局私は休んではいけないのだと気づいた。私は夫がいる間は鬼のように働き、一歩外に出るとぐったりと体を休めた。 子供たちは「お母さんはお父さんのいる時しか働かない」と笑うが、私にとっては生活の知恵なのである。 そして趣味も友達もない夫は始終家にいた。
夫は出口を全部ふさいでから事を起こす。行き場のなくなった私が右往左往するのを見て楽しんだ後、ひとつだけ出口をあける。そしてその出口から出たと言ってまたいたぶり始めるのである。
Capter3 「オレがこの家のルールブック」
私は夫が怖かった。怖くて怖くてたまらならかった。ある日突然口をきかなくなる。話しかけても無視をする。そんな日が何日も続く。事務的な話には「する?しない?」と聞く。 Yesはアゴを上にしゃくる。Noはかすかに横を向く。それが合図だった。無言の日々が続いたあと、いきなり怒鳴られる。「オマエ、何とも思わないか!!」何について言っているのかわからない。ドキドキして気が遠くなってくる。一体何を怒っているのだろうか。その答えは、大抵何日か前に私が言ったかしたことが原因だった。それほど不快だったらその場で言えば済む話ではないだろうか。なぜ何日も不快を体中で発散させ、私を混乱させるのだろうか。
夫が家にいると体も心も休めなかった。夫がその大きな目でギロリと睨んだ先には夫を不快にさせるものがあるのだ。ある時はタオルの掛け方であり、ある時は新聞の置き方であり、そしてある時は水道の蛇口の閉め方であった。きっちりと閉めると「パッキンが傷む」と言って怒鳴られた。ではと緩めに締めると緩すぎると怒られた。水道の蛇口は無意識に閉めるので、私は何度も何度も体で覚えるよう、蛇口の閉め方を練習した。まるで会計検査院の査察を受けている銀行マンのように、夫の目先にあるのがいったい何なのか、はらはらしながら彼の目線を追った。
一番のやり玉にあがったのは食事と冷蔵庫だった。夫は一日のエネルギーは朝食にあるのだからと一番よく食べた。そのおかずを作るため、前夜から仕込みをした。まるでホテルの朝食バイキングのようにテーブルに収まらない程のおかずを作る。その中から気に入ったものだけを夫は選んで食べる。残りは私と子供たちのおかずになった。
それでも夫の気に入らない日があった。毎朝私はキッチンに立ち、夫が着席するのを待つ。すぐに座れば良し、そうでない時は心臓が早鐘を打った。夫はじっと立ったままおかずを睨みつける。それは不機嫌の証であり私の手が震えてくる。夫は身じろぎもせずおかずを睨み続ける。「もう、だめだ」と気が遠くなる。ずーーっと、ずーーっと、何分も夫はテーブルの上のおかずを睨み続け、やがて乱暴に戸棚の中からカップラーメンを取り出してお湯を注ぐ。食べ終わると私を睨みつけ「俺に何でメシを食えというんだ!」と怒鳴りつける。この順番は後先が変わることもあるが、いつもその後何週間か無言の日になった。
突然冷蔵庫のものを捨て始める時もあった。「腐ったものを冷蔵庫に入れておくな!」が夫の言い分だった。しかし、昨日買ってまだイボイボのついているキュウリも、包装を解いていないソーセージも一緒に捨てられた。「俺が腐っているといったら腐っているんだ!」が夫の答えだった。
一番攻撃の的になったのは冷凍庫だった。冷凍庫とは氷をつくり、アイスクリームを入れておくところで食品を凍らせるところではない、というのが夫の考え方だった。しかし、いつも勤めの帰りに買い物に行けるわけではない。6時30分にはいつも夫は帰ってくる。私はどんなに急いでも6時にしか帰ることはできない。ほんの10分遅く職場を出てしまうと、もう準備時間は20分しかない。 そのために冷凍庫に食材を入れておくことがどうしても必要になるのである。働いている主婦ならば、誰でも知っていることだ。
急いで魚を焼いていたりすると、そういう時に限っていつもより早めに帰ってくる。「あと5分待ってちょうだい」私は夫に懇願する。しかし夫は無言で身支度を済ませると、まだおかずの並んでいない食卓の椅子に座って、自分の分のご飯を盛る。当然前には何もない。何もないのを百も承知で夫はご飯を盛っているのだ。そして何も並んでいないテーブルをじーーーーっと睨みつける。「ちょっと待ってね」。私はできたおかずだけ急いで食卓に運ぼうとするが、夫は大きな音を立てて立ちあがり、盛ったご飯にお湯をかけ、乱暴に乱暴にかっこみ始める。「オマエは何をやってるんだ!!」
そしてこれをきっかけに、また何週間も無言、無視が始まる。もちろんそうならないように、朝早く起きて朝食を作った後、夕食の下ごしらえをする。でも、やはり10分で夕食の準備はできないし、夫はその場で作ったものしか食べない。口では「買ってきたものでいいから早く出せ」と言う。そうかと言ってお惣菜などを出そうものなら「俺にこんなものを食わせる気か!」と怒鳴り出すのは目に見えていた。夫は冷蔵庫に物を入れるのは大嫌いだから、夫が冷蔵庫を開けたときは、必要最低限のものしか入れられない。といって帰りがてらの買い物は時間的に無理。だからいつも私は買い物を夕食を済ませた後にほとんど毎日行っていた。夕食作り、夕食、後片付け、買い物、翌日の準備と毎日食事作りに追われた。
夫は美食家だった。米は一番上等なものしか食べない。肉は国産牛の赤身だけ。刺身は天然鯛か鮪、貝類。「俺は豚肉なんか食わない!」結婚して最初に作った煮物の感想はこれだった。食費は全部私の出費となる。私の手取り給料から子供を預けている義母へのお礼、食費、ガソリン代を引くと手元に残るのは2万円なかった。新聞の集金が来ると泣きそうになった。話し合ったわけではないが、集金はそのときにいた人が払うことになっていたので、新聞や町内会費を払うともういくらも残らない。子供のオムツ、ミルク代をどうひねくり出すかが私の頭痛の種だった。確かに夫は何度か「オマエ、足りてるのか?」と聞くことがあったが「足りない」と言うと、「無駄遣いするからだ!!」と怒鳴られた。だから「足りてるのか?」と尋ねられたら「足りてる」と答えなくてはならない。何かあったら夫はきっと言うだろう。「足りてるか?」って聞いても『足りている』っていうから何もやらなかったんですよ」
夫は特別扱いをされるのが大好きだ。行き付けの飲み屋でどんなに自分だけが特別扱いされているか、嬉々として話す。また、職場の上層部にどれだけ信頼され、ホットラインでものが言えるか得意げに話す。そのくせ、誰か他の人が特別待遇されると機嫌が悪くなった。
私と結婚した理由のひとつに、私の職業があるかもしれない。私の職業はあまり一般にあるものでない。私にとっては普通の単語なのだが、夫には珍しく、その言葉を身近で聞いていることが、自分の虚栄心を満足させるものらしい。名のしれた人に会ったりすることもあるが、私が話してきかせるとまったく興味を示さず無視するくせに、他人には「ウチの女房が○○と会って」と得意げに話していたりした。夫は実に見栄っ張りなのだ。だから見栄が張れない上の子は憎悪の元になり、そうでない下の子は猫かわいがりした。下の子供が生まれた時のことを、夫は忘れてしまったのだろうか。