◆by 飛鳥◆

〜私の離婚〜

浴室から排泄物の臭いが漏れてくる。
遅く帰宅した夫は浴槽の中で、必ず排泄する。
その浴槽には幼い娘たちと妊娠中の私が入るのに・・・

ビールを飲んで夫が眠った後、浴槽を洗うのが日課だった。 洗剤で何度も洗い、最後には熱湯をかけても気持ちの悪さは消えなかった。 妊娠後期の体での浴室の掃除はただでさえ苦しいのに、突然始まった夫の行為に 情けなく、みじめで、洗いながら涙が止まらなかった。

その頃の私は、その行為が夫の嫌がらせだとは思わなかった。 彼は彼で、今まで勤めた会社を辞めて、母親の経営する会社で働き始めたために精神的に参っているのだと思っていた。 何故そんな事をするのだと、問い詰めたい気持ちを抑えて夫の気分を引き立てるような話題を選ぶことに腐心していた。

18歳で知り合い、5年の交際の後に結婚した。
12年の結婚生活の後にこの行為が始まった。
時はバブルの全盛期だった。 不動産業を営む姑の経営する会社もこの世の春を享受していた。 夫も自由になるお金を持ち、破目をはずしているのだろうと「物分りの良い妻」の役を演じていた。

「いってらっしゃい」の後は、いつ帰ってくるのかわからなかった。 妊娠中の私はひどい花粉症が悩まされ、夜もほとんど眠れず、日毎に体重も減少していった。鼻呼吸ができず、カレーを食べても味が判らないほどの副鼻腔炎にもなっていた。

浅い眠りにやっとついたところに、帰宅されるのは苦痛だった。 夫は帰るとバスルームに直行し、浴槽で排泄を始める。 帰らない日には、朝になってから姑からの電話に悩まされた。
「出勤してこないけれど、どうしたのか」
「昨晩は帰ってきていません」
「貴女がきつい事ばかり言うからじゃないの」
夫はどこでどうしていることやら、帰宅しなかった朝は毎回この会話が繰り返された。

物事をはっきりと言う私は「夫を支配している」との印象を持たれていた。 姑が取り巻き連中にそそのかされて、韓国の女性を不法入国させてクラブ経営に手を染めた時にも反対し、偽装の結婚式の写真を撮るから来いとの命令にも従わなかった。 姑は無知な拝金主義者で、韓国女性を偽装結婚で入国させる事は「相手のためにもなり、自分のためにもなる」と、思い込んでいた。 彼女の愛人だった男は会社の専務であり、私を毛嫌いしていた。 「貧乏人の娘のくせに、プライドばかりが高い」
これが私に下された評価だった。

夫は物腰の柔らかい、口数の少ないハンサムな男だった。 若くして知り合った事もあり、身に着けるものすべてを私が選んでいた。 出勤前には、スーツはもちろん。ネクタイやハンカチーフに至るまで専属のスタイリストのように出勤前に並べて出しておくのが日課だった。 背の高さと上品な顔立ちを生かしたスーツ姿は、妻の私が見ても惚れ惚れするほどの男ぶりだった。

恋愛はどうかしていないと出来ない。
知り合った頃の私は、夫の口数の少なさや私に文句を言わない部分を「懐が深い」と、思い込んでいた。 「君に任せるよ」と鷹揚に構えているように見えたのは、面倒を自分が引き受けたくないためだった。 彼は私に支配されていると言い続け、私は彼を支えていると思っていた。

「気の強い妻と優しい夫」 この構図が、私を黙らせていた。
子どもの虐待でも、暴力などわかりやすいものと、ネグレクトのようにわかりにくい ものがあるが、私の場合には世間にはわかりにくいものだったと思う。

知り合った当初から、彼は言いたくない事、嫌な事を私に押し付けてきた。それ を私は押し付けられていると思っていなかった。「助け合っている」と思って いた。 嫌な事は徹底的に避けて、誰かに代ってもらう人だった。
夫婦関係に限らず、彼はいつでもベビーフェイスで、パートナーはヒールになる。 二階に上がらせて火をつけて、はしごを外してしまう・・・死にかけたところ で、ヒーローよろしく助けるふりをする・・・と言っても本当に助けてくれるわけで はなく、外したはしごを元に戻してくれる程度だが。 私に対してだけではなく、友人にも同僚にも兄弟にも同様だった。彼の愛人もそう だったのだろう。

いっそ、暴力を振るったり、暴言を吐いてくれるたら、私が被害者だと周囲にも理解 してもらえるのに・・・と、もどかしく思っていた。 それ以前に、まず自分に落ち度があるからに違いないと思っていた。
暴力や暴言がなく、理想の夫のふりをされていると、自分自身の被害者としての意識 が持てずに、この人がこのような行為をしてしまうのは、私に問題があるからだと、 自分で自分の反省点を探してしまったのである。

その後、再婚した現在の夫は暴力と暴言が日常の、わかりやすいモラハラだったから、 これもまた楽ではないが・・・・
暴力も暴言もないけれど、他者の気持ちを思いやる能力はない。それでも穏やかな物 腰と、恵まれた風貌で世間は騙されてしまいがちである。
せっかく離婚をしたのに、再婚相手もモラハラとは・・・と、我ながら、馬鹿なこと だと思うが、私自身の問題として「依存される快感」を捨てない限り、相手を変 えても何度も間違いを繰り返すと、実感している。

遊ぶために生きている男だった。 スキー、テニス、ゴルフ、麻雀、ビリヤードと、私も子どもが生まれるまでは一緒に遊んでいた。家には彼の友人を頻繁に招いた。人をもてなすのが嫌いではない私は特に嫌だと思う事もなく、彼の友人を歓待した。 長女は未熟児で生まれ、風邪をひけば肺炎になった。夜中に病院へ駆け込む事も何度となくあった。夫は娘を可愛がったが、入院中の子どもがいても、スキーの予定を変更する気は無かった。私は夫の遊びをとやかく言うつもりもなかった。 ただ、何度か本当に必要な時に予定の変更を頼んだ事はある。それが、彼が周囲の人たちには「遊びにいかせてくれない」「やきもちを焼いている」と、伝わっていた。

私が一緒に遊びに出なくなると、夫は遊びに付き合ってくれる女性を見つけた。 金曜日の朝に出勤した夫は、日曜日の深夜まで音信不通になった。 初めのうちは不特定多数の女性だった。女子大生もいれば、人妻もいた。 様子が変わってきたのは、かつて勤めていた会社の女性との付き合いが深まってからだった。まだ、本格的に付き合い始める以前に、彼女はおかしな年賀状を送ってきた事で記憶にあった。 既婚者の家へ送る年賀状に「公私ともに来年からもよろしくね」と、書いてあった。

夫は能力ない男だった。 会社の研修で彼が取ってきたメモと彼への質問をもとに、レポートまで私が書いて提出した。親戚の集まりでも、縁戚関係を把握して彼に説明しながら事なきを得ていた。 それでも、立派な風貌と、穏やかな物腰。いつも綺麗に仕上がった様子に周囲の人は騙されていたし、私も夫が外で体面を保てればそれでよいと考えていた。

夫の帰りの遅い日には2種類あると気がついた。 突然帰ってくる日と無言電話から30分後に帰ってくる日と二通りだった。 無言電話後に帰ってくるのは週に2日ほどだった。 それに気がついた私は無言電話の後、時間を見計らって駐車場に出てみることにした。 最初は駐車場の入り口付近で待っていた。「どうしたの?」と、尋ねる夫に「ちょっとピールを買いに出てきたの」などと言っていたが、ある時「見えるのよ。あなたの車がいまどこを走っているのか」と、言ってみた。「ああ、今あの角を曲がってあの通りに入るってね」 夫は笑ったが、気味が悪いと思っている様子が手に取るようにわかった。

それでも無言電話は止まらなかった。ある時は、停車位置の隣の車の陰に隠れていた。車を所定の位置に止め、「今日は居なかった」と、明らかにホッとしている後姿に「お帰りなさーい」と、声を掛けたら本当に飛び上がった。 あの頃は不快に思っている自分の気持ちとは向き合えずに、冗談にして済ませてしまおうとしていたのだと、今になって思う。夫のくだらない浮気を冗談にして笑い飛ばしてしまうことで、傷つけられた自分の気持ちをごまかしていた。 日曜日の深夜に帰宅した夫には「若人あきらさん、お帰りなさい。テトラポットから足が抜けたのね」 背中の引っかき傷を、自分でしたと言えば「いつから手が伸びるようになったの?怪物君みたい」

私は一切の疑いや不満を口にするのをやめた。夫の行為に腹を立てながらも離婚は考えられなかった。居心地のよい家庭があれば、男は遊ばないものだと言われて、試してみようと思っていた。 帰ってこない事がわかっていても夕食の支度をして、夫が帰ってくる時には必ず起きて待ち構えていた。彼が不倫をしていると思ってもいない振りをして、信じきった目をして夫を褒め続けた。自分の行為を私のせいにして正当化させることだけは避けたかった。

夫より、私より、先に相手の女性が業を煮やした。無言電話が夫のいる時にもかかり始めた。「どうしたのかしらねぇ・・・」と、全く気がつかない振りをしながら、夫の様子を観察していた。 確実に夫は憔悴し始めた。片方に自分を信じきった妻、もう片方には結婚を迫る愛人を抱え込めるほどの器量がある男ではなかった。

そして、浴室での排泄が始まった。

朝まで放置してしまうと、流しきれなかった排泄物の一部が浴槽にこびりついてしまう。 夫が眠るのを待って、浴槽を洗うのは苦痛でならなかった。次第に夫に対しての殺意まで抱くようになっていた。
自分の考えを相手に伝えて、理解を得るとの気持ちは彼にはない。言わないうちに気を回して意に沿うようにするのが当然だと思っていた。彼は要求することさえない。ただ、そこに居て、ため息をつくだけである。彼の思ったとおりのものが提供されなければ、またため息。 うまく事が進めば夫の手柄、失敗すれば私が悪いと、いつの間にか決まってしまった。 夫が自分の母親に言わなければならない事まで、私が伝えなくてはならなかった。

そんな役割分担はやめたいと思っても、私がやめてしまえば何も始まらないし、終わりもしない。
「〜は、しましたか?」
「・・・・」
「明日中にしないと、間に合わないのだけれど」
「・・・・」
「どうするの?」
「・・・・・・・(ため息)」
「じゃ、私がしておくわ」
「そう、君のいいようにして」

挙句に言われた。「何でも君の好きなようにしてきたじゃない。僕は一度でも指図はしなかったでしょう」

夫と女性の二人がかりでの嫌がらせに、私の方が音をあげた。 私は不本意ながら、別居して自分たちの関係を見直してみないかと申し出た。 「ぞう、君のいいようにしよう」と、相変わらず卑怯な男だった。 親や親戚に別居が知れると面倒な事になると思い、この件については誰にも言わないことにした。平日は何をしていても構わないが、子どもたちのために、日曜日は帰宅してほしいことと、冠婚葬祭にはきちんと夫婦の顔をして出ましょうと、私の方からの条件を提示すると今度も「そう、君のいいようにして」だった。

相手の女性はそれでは納得しなかった。
子どもの運動会や誕生日に限って、夫は日曜日に音信不通になった。
法事や親戚の結婚式の日には朝になってからの帰宅。出かける時間ぎりぎりでなければ戻らなかった。 夫が彼女の元にいない日曜日には、留守番電話に「恋に落ちて」を何十回も吹き込まれた。 「21件目です。もしも願いが叶うなら〜」「22件目です。土曜の夜と日曜の〜」これには参った。正直なところ恐ろしさが先にたった。 離婚しない恋人の家に灯油をまいて、二人の子どもを殺した事件を思い出し、子どもたちのために危険は回避しなくてはならないと思ったから。

私は夫を呼び出し、「別居して1年になるけれど、どう?」と尋ねた。答えは「・・・・(ため息)」今まで通りだった。 「じゃぁ、離婚を前提に話し合いをする?」
「君のいいようにして」
「じゃあ、条件は?」
「・・・・どうすればいいの?」
「あなたにできる精一杯の誠意を見せてもらって、納得したら家裁に行ってもいいわ」
「誠意って・・・・」
「慰謝料と養育費に決まっているでしょう。今度は私以外の人に相談してよ」
「そう・・・君がそう言うのなら・・・」

正直なところ、夫の人間性には見切りをつけていた。ただ、子どもたちのことを考えるとなかなか決心をつけてよいものかどうか迷っていた。正直に告白すれば、子どもたちにかこつけて、過去に彼との付き合いで費やした時間を捨てる事が惜しくてたまらなかったのだろうと、今では思っている。彼女の嫌がらせが私の気持ちを離婚へと大きく前進させた。私には守るべき幼い者たちがいる。夫の身勝手でこの子どもたちを危険な目に遭わせてはいけない。

夫の出してきた条件は一部修正をさせたものの、ほぼ満足のいくものだった。 私は夫に、この条件を持って家裁に申し立てるようにと、この時は明確な意思の元に指図した。

一方で、私はその女性の母親を呼び出した。夫と結婚するのだと彼女は母親に話してはいたが、未だ離婚もしていない男だとは言っていなかった。母親は慌てて日時を約束した。 彼女は幼い時に父親と死に別れていた。母親は他人に家を貸す代わりに彼女を預けて、住み込みで働いていた。私は彼女の実家の近隣の人たちから、縁談の聞き合わせを装って、話を聞いてしまっていた。

母親との待ち合わせ場所には彼女も一緒に立っていた。 「夫は今日の事を知っていますか」と、問うと「ええ、私達の間に隠し事はありません」 相変わらず卑怯な男だ。「君のいいように・・・」をやったに違いない。 少々気の毒に思える母親は、娘が騙されているのではないかと心配していた。 娘の方は、何を言われるのかと警戒している様子だった。そして、テーブルの上にテープレコーダーを出した。自分の行為を省みず、小賢しい真似をする女だと苦笑しながら彼女を値踏みした。 夫が何を持ってして、この女性と再婚するに至ったのかいまだに理解できない。 私の締め付けが厳しくて逃げ出したということになっているのだが、この女性の厳しさが見抜けないほどバカなのかと、改めて離婚の選択の正しさに自信を持った。

無言電話の件などには言及せず、私は夫の出した養育費の金額だけを伝えた。
「もし、あなたが彼と結婚するとしても、彼には支払いの義務があります。あなたも一緒になって背負ってやってくださいね」 彼女は「そんな事を言うために、私を呼び出したのですか」と、言った。母親は「奥様、申し訳ありません。まさか、結婚してる人と付き合っているとは私には言いませんでしたので・・・」
「謝らなくていいのよ。とっくに壊れていたんだから」と、彼女はどこまでも強気だった。 「あなたにお会いしてみたかったのは、私にもしもの事があったら、あなたに子どもたちをお願いしなくてはならないでしょう。でも、安心だわ・・・しっかりしている方で。私も体には気をつけるつもりですけれど、何かの時にはよろしくお願いしますね」と、言って最後にした。夫の排泄行為などをぶちまけてやろうかとの思いも少しあったが、やめた。 自分の母親と同じ年の彼女の母親の、老女ぶりに負けたのがひとつ。もうひとつは「どうせ養育費を出させるのだから、嫌な気持ちを持たせるのはやめよう。払わなくなったらただでは済まさないけれど」という本音があった。

調停は2回で終わった。
相手方として後から呼ばれた私に調停員が言った。
「ご主人が、なぜ離婚をしたいのか理解できないのです」
「それは私が理解していますので、大丈夫です」
「何を聞いても良く覚えていないとか、判らないとおっしゃるのですよ。ご自分で申し立てられたのに、離婚の理由もわからないとおっしゃるのです」
「ああ、それは何時でもそうですから。私も離婚しても良いと思っておりますのでよろしくお願いします」
「やり直せませんか」
「無理です」
相手方の待合室には参謀よろしく、彼女が同伴していた。

その1年後に、養育費の支払いが滞ったために私が彼を家裁に呼び出した。 そのときも相変わらず明確な言い訳さえなかった。うっかりして滞ったなどと言うのなら、何時支払いが滞るかもしれないからと、一括払いを迫る私に、調査官が言った。
「今でも十分な金額を払っているのだから、いいかげんにしないと払わないといわれますよ」
「あ、そう言いましたか。じゃあ、本人をここに連れてきてください。私が直接聞きますから」
「いや・・・それは・・・私が円満に解決しようと思って・・・」
「そうですか。家裁という場所は、嘘をついてでも円満解決を望むのですか。裁判官に直接聞かせてください」
「申し訳ありません・・・忘れてください。私の失言です」
その時は、一人2万円ずつ増額で手を打つことにした。

夫との関係においては、いつでも私は加害者であり、我儘で思いやりが無い人間だとの罪悪感を持たせられていた。 自分の希望を述べる事さえ、我儘か、正当な事なのか考えずにはいられなかった。

夫との離婚を決意するまでに2年以上悩み続けた。 今になって思えば、自分の過去の時間が無駄になってしまうのがイヤで異常な行動まで見てみぬ振りをし続けていたとしか思えない。 「見切り千両」という言葉が浮かんできた時に、これもそうなのだと確信した。 株の世界では、それ以前に入れた資金を惜しむばかりに、破産するまで資金を入れ続ける投資家も多い。私も同じように過去の時間を惜しんで未来の時間までつぎ込んでしまうところだった。

私は幸運だったと思っている。 夫は自分自身を持たず、何でも人任せで自己愛さえ持っていなかった。 物事を考えるのが苦手な人間でも持っている「感情と感覚」ですら、鈍かった。 だからこそ、強い意志を持った女性の言うなりに私に対しての嫌がらせまでした。 彼女がなりふり構わず結婚したがったことも、却って幸いだった。そうでなければ、更に悩みながら暮らす日々が更に続いていた事だろう。

夫は彼女と新しい家庭を作り、子どもも二人生まれた。
現在、会社は倒産寸前で、生活も困窮しているらしい。
身勝手な姑は「あんな女と一緒になるから、運が落ちた」と、言っているらしい。
彼女は彼女で、自分の宗教上の理由から姑の大好きな冠婚葬祭を拒否していると聞いた。
夫も「沈黙とため息」に操作されない女性に出会って成長したかもしれない。
3年前に「君も再婚しているのだから、養育費は支払わない」と、言ってきた。 私が再婚してからも養育費を支払い続けてきたことだけは、彼の父親としての誠意だと認めてやろうと思い、承諾した。 子どもたちには離婚の本当に理由は話していない。「パパも悪い人ではなかったけれど、お互いに考え方が違ったから・・・」と、話してある。