◆by 飛鳥◆

〜私の離婚2〜

我が家のリビングに、定点観測カメラがほしいと思っていた。 外では人格者ぶっている夫が、仮面を脱いだ家庭の中では正常な人間とは思えないような行為をしていると、世間の人たちに知ってほしいと思っていた。

前夫と離婚して2年後、私は3人の子どもたちを連れて再婚した。 それは、世間から見れば「3人の子連れの女が上手い事をやった」ように思われた。 夫は友人としては申し分がなかった。3人の子どもを抱えて離婚した私と、離婚後に子どもに会いたいと思いながらも、養育費だけを支払い続けている男は、お互いに逆の立場で色々と話をした。彼は私の娘たちを可愛がり、子どもたちも懐いていた。 前夫との離婚で私は傷ついていた。傷ついてはいたが、その傷に気がつかない振りをしながら暮らしていた。その傷は時折、過呼吸や胃痙攣という形で現れた。

夫と知り合い、初めて自分の心の傷について話すことができるようになった。もう、ひとりで苦しまなくても良いと思いながらも、結婚へ踏み切るには不安も大きかった。

夫はとんでもない男だった。 海外赴任と称して、米国に単身で赴任をしたフリをして、その実は愛人を伴っての赴任だった。2年後にそれを知った妻は会社に訴え、その結果として彼は約束されていた将来をなくした。一緒に暮らしていた女性は、お互いに利用しあっていたのだからと、米国に残って学業を続ける事にした。エリート意識の強かった夫は冷や飯を食わされるような会社には居られず、会社もやめ、家庭も捨て、愛人からは見放されての帰国だった。 帰国に当たって帰る場所もない彼が友人に相談すると、かつての同級生であり、不動産屋の夫を持つ私を紹介された。 家の紹介をしただけでは済まず、荷物の受け取りから再就職の相談まで、なぜ私に頼るのかと思うほど、何もかも話す男だった。 私は夫の過去の行状を知っていたために、この男性とは結婚はしてはならないと決めていた。それが、結婚に至ってしまったのには事情がある。

ある夜、会社に居る夫から電話があった「前の女房が子どもを家に置いてきたから、週末は見てくれって」
留守番電話に入っていたらしい。 「預かってもらえないかな」その週末には海外出張の予定が入っていた。
母親も居ない、父親も居ない子どもを、アパートに置き去りにしたままではいられなかった。その時は緊急避難として預かった。しかし、何度もそれは繰り返された。 母親は子どもを置き去りにする。子どもは父親と二人きりにされると逃げ出す。交番や警察で保護されると私の家の電話番号を言う。結局私が迎えに行っていた。 子どもは私の様子を探りに来ているようだった。そして帰宅した後には必ず母親から電話が入る。お礼の電話ではない。私に言いがかりをつけ、嫌がらせをするダメの電話なのだ。
「しゃぶしゃぶを食べに行って、あなたの箸で口に入れてやっていたそうですね」
「しゃぶしゃぶなんて、食べに行っていませんよ」
「嘘をつきなさい。子どもがそう言って、情けないって泣いていますよ」
「じゃ、直接話させてください」
「あなたの声も聞きたくないといっています」

そしてまた、子どもはアパートに置き去りにされ、私が預かるのを断ると父親のところから逃げ出す。
「なんで、嘘ついちゃうの」
「だって、本当のことを言っても信じてくれないし、嘘をつくと喜ぶんだよ」
「おばちゃん、あんたのお母さんに文句ばっかり言われているんだけど」
「だって、お母さんはおばちゃんの事をきらいだから」
そのうちに母親が出かけたくなると、私の所へ直接おいていくようになった。

そして、遂に母親は親権を移動したいと言ってきた。
5歳で別居、10歳で父親に引き取られた男の子は、母親から植え付けられた父親への敵意と恐怖感で不安そうだった。ガリガリに痩せて、油断のない目つきの子どもに「まるで戦災孤児のよう」と、私の母親は感想を漏らした。 「ママに嘘をつかれた。僕と離れたら死ぬって言ったのに・・・」 「パパと一緒にいたら、殺されるって言っていた」
泣きながら震える男の子に「おばさんは、嘘はつかない」「出来ない事は出来ないって言うけれど、約束した事は絶対に守るからね」と、約束をした。
夫の前妻は「あなたは私の子どもを黙って育てればいいのよ。私はノーリスクで子どもを可愛がるのだから」「コブ付じゃ、再婚もできやしない」

子どもを引き取ることになった夫は、再婚しようと再び言い始めた。 私は承諾しなかった。
そこで初めて本性を現した。「おまえ、ここまで俺に言わせておいて、断るとは何事だ」 「お前の実家に火をつける」「お前とその子どもだけお幸せにはさせんぞ」

もう、逃げられないと思った。 息子は毎日、学校が終わると私の家にやってくる。
夕方が近付くと、「帰りなさい」といわれる事を恐れて、テレビゲームのまえから離れない。
無理に父親の家に帰すと、家を飛び出して交番から電話が入る。
「おばちゃんが、お母さんになってくれなきゃ、お父さんが怖くて帰れない」
男の子と同い年の長女も言った。「おじちゃんが、お父さんになってくれればいいのに」
そして、私の再婚生活が始まった。

毎日が戦場のようだった。
何か注意をされると、息子は母親にそっくりな口調で父親を罵った。父親は子どもを叩いた。間に入って私も一緒に叩かれた。 最初のうち、夫の怒りは自分の息子に向けられた。 夫が自分の子どもとして、思い描いていた子どもと、現実の子どもの間には大きな差があった。 私はこの子の養育に専念するために仕事を辞めて、毎日帰宅した時には家で向かえるようにした。誰も居ない家に帰り、夜中まで放置されることの多かった子どもは、私が家に居ないと、不安がって家の中で暴れまわった。
「勉強が出来ない」これだけで、夫が子どもを叩くのに十分な理由になった。 息子は、自分ばかりが叩かれているうちに嘘をついて、私を父親に叩かせようとするようになった。 「おかあさんが、僕の食事だけは作ってくれなかった」とか「僕に出て行けといった」等々。
食べすぎで下痢をして、医者から絶食を申し付けられている子に、食事をさせなかっただけで、叩かれ、何時間も責められた。「どんな理由があっても食べさせなかった事にかわりはない」「俺の子どもにメシを食わせないのなら、お前の子どもにも食わせるな」 家の中で、気に入らない事があると暴れ周り、壁を叩いたり、物を投げたりする子どもに「やめないと、ここには住んでいられなくなるのよ」と、言っただけで「出て行け」と、いった事になる。マンションで暮らすための最低限のルールでしょうと言えば、じゃあ、こうしてやると、夫は壁などを蹴り始める。「自己所有なのだから、住んでいられないはずはない」「誰かが文句を言いに来るまでやめないからな」

次第に夫に説明する事さえ面倒になった。 何度説明しても、重箱の隅をつつくような事ばかりに拘り、理解をしようとする姿勢が見られない。事実がどうであれ、夫に必要なのは自分のストレスを発散させる事なのだ。 ちょっとした言葉尻や仕草から、「俺をバカにしている」「誰のおかげでメシが食えるんだ」と、言い始めたら止まらない。

子どもは箸の持ち方を知らなかった。握って掻きこんで食べていた。箸の持ち方を教えるために、嫌がって箸を投げつけた子どもを叱れば、父親がテーブルをひっくり返して怒った。「俺の子どもに言いがかりをつけるつもりか。お前の子どもは完璧なのか」 男の子に対して、私は自分の子どもと同じかそれ以上にケアしてきたと思う。ただ、夫からしてみると、躾は虐待だった。 男の子はまず、体中のメンテナンスを必要としていた。奥歯は虫歯によって原型をとどめていなかった。背骨は歪曲し、斜視、アレルギーと、医者の予約で毎日が埋まった。その上、学校でのトラブルにも事欠かなかった。授業中に立ち歩き、非常ボタンを押し、教師に暴言を吐き、級友に怪我をさせた。 私は仕事を辞めて、子どもを育てる事に専念した。

それ以来、夫は「他人の子どもを3人も押し付けられて」「自分で治そうとしないで、安易に医療費ばかり掛けやがって」「俺から搾取する」と、言い始めた。 担任の教師と相談して、子どもの落ち着きのなさを心配してカウンセリングを受けさせようとすれば、「俺の子をキチガイ扱いするのか」と、怒り狂った。息子の問題で何か気に入らない事があると、必ず最後には「お前の子どもたちは完璧なのか」と、迫ってきた。

夫は反対したが、私は教育相談を受ける事にした。 そうしなければ、自分自身でも躾をしているのか虐待をしているのかわからなくなってしまいそうだった。カウンセラーは父親にも会いたいといったが、夫は断固拒否をした。 自分には全く問題がないのに何故カウンセラーのところへ行かなくてはならないのだといった。息子の実母から「お茶でも飲みながら子どもの様子を聞かせて欲しい」と、お気楽な電話が入った時には、ただお茶を飲むのではなくカウンセラーのところへ一緒に行ってみようと誘ったが、「子どもに問題があるわけがないでしょう。あなたの頭がどうかしているのに何故わたしまで巻き込もうとするの」と、こちらも拒否された。

夫は突然、何を理由に暴発するかわからない。 私は子供たちの安全を最優先に考えていなくてはならなかった。 子供たちの目の前で暴力を振るう夫が内心では怖いと思っていたが、子供たちに怖がっていると悟られてはいけないと思っていた。

ある日、台所で食事の支度をしている私に夫が些細なことで言いがかりをつけ始めた。 生返事をしながら作業を続ける私に突然夫は飛び掛り、食器戸棚に何度も打ちつけられた。 胸倉を掴まれながら、私は右手に持つ包丁を意識した。 「いま、ここで刺したとしても誰も私を責めないだろう」 そう思って・・・包丁をすてた。 捨てた右手で夫の衿を掴んだ。夫は私が反撃に出たと思い、顔を向けると私の手の甲を噛んだ。極度の興奮のためか痛さはあまり感じなかった。「幼稚園でだって、噛むのは販促だよ」夫は完全に正気ではなかった。首を左右に振り、小さな子どものように声を上げて私の手をかみ続けた。

夫は暴力を振るったり、暴言を吐いた後には部屋に引きこもる。 そして数時間後に「頭が痛い」「熱がある」などと泣き言を言って関心を引こうとする。

私と夫との間には、結婚前も結婚後も「夫婦関係」と言われるものはない。 他人事であれば信じられないと、私だって思うに違いないが、ないものはないのだ。 結婚した当初、不自然だといった事がある。その時の夫の答えは「虫唾が走る」だった。 そのくせ、私が夫以外の人間と楽しそうにしているのを見ると、許さなかった。我が家の子どもたちが私と笑っていても不機嫌になった。そのくせ、気分次第で子どもたちの目の前でもベタベタと、絡んでくる。 夫は私に母親を求めていた。息子が私に甘えているのを見ると無性に腹立たしくなり荒れる事も多かった。自分自身の母親に満たされなかった思いを妻に向けて何処が悪いのだと開き直った。 私は何度も夫にこそ、カウンセリングが必要だといった。夫は受け付けようとはしなかった。

息子の部屋から女の子の体育着のハーフパンツがズタズタに切り裂かれたものが出てきた。 私が夫に相談しても「男の子だから、そのくらいの事はする」と取り合おうともしなかった。息子を問い詰めると「友達が置いていったのを預かっただけだ」と言うので、先日からクラスで彼が好意を持っていた女の子のものではないのか。なくなったと聞いていたといったところ、夫が現れて「俺の息子を犯罪者扱いするのか」といきなり殴りつけられた。 その時は鼓膜が破れていた。息子と父親は二人がかりで、私が継母だから犯罪者扱いするのだと言い立てる。私は切り裂かれたハーフパンツの入った袋を持って、「預かったものなら、これは犯罪だから警察か学校に提出する」と、言い張った。「犯人を捜してもらわなくてはならない」階段を駆け下りる私に息子がすがりついた。「やめてよ。僕がやったんだよ」父親はそんな息子に「お前って奴はまた俺に恥をかかせたな」と背中をむけた。

夫と実母は息子の嘘に振り回され続けた。 息子が何かをする。私が学校や警察から呼び出されてそれを知る。父親も実母も息子の言い訳を鵜呑みにして、彼のしたことがルール違反であるとは教えようとしない。厳しく叱責するわたしは三者から、時には息子の祖父母たちからも「継母だから」と罵られた。 息子がたまりかねて本当のことを言うまで、私は夫から罵倒され続けた。実母は息子から聞いては、電話で何時間も文句を言い続けた。

前回の離婚は何のためにしたのだろうと・・・空しく思うことが多くなった。 前夫とその愛人の嫌から背から逃れて自由になったはずだったのに、今回の結婚では夫とその息子、そして夫の前妻からも、罵られ嫌がらせをされている。 あれに我慢できないと思って離婚したのに、これを耐えるのは何故なのだろうと自分でも理由がわからなくなっていた。 離婚はしようと思った。 一度目は、家裁へ出向き相談したところ、離婚は可能だが、夫の子どもの親権をとることも、引き取る事も出来ないといわれて、申し立てを断念した。 夫が「離婚だ」と叫ぶと、私の娘たちは私と一緒にいるのが当たり前だと思っているが、息子だけは気の毒なほどうろたえる。自分が原因を作り、話がここまで来てしまったことは十分承知していても、いざとなると事の重大さに気がつき、「おかあさん。僕をおいていかないで」と、懇願した。

周囲の人は皆、そんな子どものために夫との離婚を断念する事はないと言った。私も泣きつく息子に「アンタのせいで私が殴られたのよ」と、罵ってやりたいと思った。それでも息子の問題は、精神的にも肉体的にも放置され、甘やかされ、大人の気分次第で育てられたためなのだと思い直した。

夫と離婚をするにしても、息子との約束を破るわけにはいかなかった。 私は夫に息子と養子縁組をすることを提案した。理由は「あなたと離婚しても息子を引き取れるように」とは言えないので、「あなたにもしもの事があったときに、実母に任せられないから」言った。夫は娘たちと自分との養子縁組もしたいと言った。 そして、私は更に自分の首を絞めるような真似をしてしまった。

夫は異常なほど、依存をしてきた。毎朝、バス停まで送らなければ会社へ行かなかった。 家庭の中で、誰よりも自分が優先でなくては不機嫌になった。 夫婦関係も無く、自分の子どもを育てさせるために飼ってやっているとまで言いながら、会社が終わり次第、寄り道もせずに帰ってきてしまう。 帰宅すると、子どもたちと私の会話に入れなければ、不機嫌になる。不機嫌になると誰かの些細な言動や、ちょっとしたミスを見つけては言いがかりをつけ始める。娘たちは「お父さんが帰ってきたら、ママの近くには行かない」と、決めていたようで子供同士で部屋に引取り、おとなしく遊んでいたが、息子は父親に対抗しているのか、そばにいて父親の機嫌をわざと損ねるような行動ばかりを繰り返した。

夫が買ってきて、冷蔵庫に入れておいたアイスクリームがなくなった。 一番下の子の誕生会を家でしようと友達を呼んでいた日の朝だった。 夫は犯人探しを始めた。無くなったのは前日に食べなかった次女の分だったので、犯人は息子しかいなかった。長女はもともと冷たいものが苦手で、三女は小さくて、冷凍庫まで手が届かない。息子は食べていないと泣きながら訴えた。私は犯人探しのような事はするべきではないといったが、夫は「犯人が名乗り出ないのなら、連帯責任だ」と、言うや否や、4人の子どもたちの頬を叩いた。 リビングに娘たちの泣き声が響き、息子が薄笑いをしたのを見たときに、私は息子の部屋へ走り、アイスクリームの入れ物を持ってきて、夫に投げつけた。 夫は私の頬を張って、髪をつかんで引きずり回した。誕生会のために用意した料理やケーキはことごとく踏みつけられた。父親が息子に「継母に虐待されるから、出て行くぞ」と、声を掛けると息子も一緒に出て行った。 正直なところほっとした。二度と二人とも還ってこないでほしいと思いながら、予定通りに誕生会を開いた。 その日は息子だけが数時間後に帰ってきた。 なんでもなかったような顔をして、「おとうさんって、狂暴だよね」と、言う子どもに腹を立てながらも、この子の生い立ちを考えれば許して、教育してやらなくてはならないと自分で自分に言い聞かせてしまった。

夫は帰宅しないと思っていたら、自分の実家に行って、息子が私に虐待されるから預かってほしいと頼んでいた。夫の両親は自分たちで引き取るつもりはなく、毎日私に電話をしてきては、実母に子どもを返してしまうようにといい続けた。息子の実母も再婚していて、引き取るつもりはないので私が育てるといえば、「継母のくせに」「いじめ殺すつもりか」と、一方的に言われ続けた。

私は再度、家裁に調停を申し立てた。 申し立てと同時に、貸し金庫を借りて、家の権利書や保険証券、通帳や印鑑を入れてしまった。夫にも自分の両親にも申し立てをしたことは話さなかった。 ある土曜日に家裁からの呼び出し状が届いた。 夫は突然のことに驚き、「何も言わずに卑怯だ」と言った。夫と私は家の中でも顔をあわせないようになり、家庭内別居が始まった。

調停が開かれ、夫は前妻との離婚の時に頼んだ弁護士に頼み、自分は出てこなかった。 弁護士は「本人は深く反省しているし、やり直したい」と言いながら、夫が弁護士に話していない事柄があまりにも多いので、不機嫌になっていた。 一回目の調停では私が離婚をしたいと主張し続け、弁護士は「先生、これでは奥様の方が気の毒すぎますよ」「先生にもご主人は隠していたんですね」と、調停員から言われてしまった。夫の頼んだ弁護士は家事調停をバカにしていて、以前から某政治家(故人)の某重大事件の弁護団長を務めたと自慢していたが、面目丸つぶれでいい気味だと思った。 ところが、やはりそこは敏腕弁護士らしく、調停外で交渉が始まった。夫は私の実家にまで行って両親にとりなしを頼んだ。父は首を縦に振らなかったが、母が説得された。夫の実家の両親が東京まで出てきてお願いをするといい始めた。 結局、夫は私が息子と通っていたカウンセラーのところへ相談に行き、自分もまたカウンセリングを受ける事にして、「円満解決」というかたちになった。 私と息子と夫がそれぞれ、カウンセラーを持ち、それとは別に家族問題を専門にしている研究所で家族全員がカウンセリングを受ける事になった。

円満解決のためには弁護士とこのような会話があった。 「奥さん、どうでしょうね。ご主人はここまでしてでも離婚は避けたいといっています」 「先生、本当に治ると思いますか。私はちょっと、信じられないんですが」 「その時は、また申し立てればよいじゃありませんか。あのご主人がカウンセリングを受けるというのは、よくよくの事ですよ」 「先生、その時は引き受けないでしょう」 「いや・・・私も年ですから」 その後、この先生には会うたびに言われた。「ご主人はすぐに気が変わるので弁護士泣かせですよ。私には家事調停は向いていないな」「奥様、よく付き合っていられますね。私には無理だなあ」

結婚して3年間、私は夫の暴力と暴言にひたすら耐え続けた。 「どちらかと言えば、殴られた方がましです」と言うと、カウンセラーは驚いた。 「奥さん、それは異常です。殴られたら痛いでしょう」
「でも、すぐに終わりますから」
夫は「怒らせるようなことをするからだ」と言い続ける。 「子どもを差別して、虐待するんですよ」「子どもの実母も虐待だと言っています」
「コイツは嘘をつくんですよ。自分の子どもと同じように可愛がれるわけがないじゃないですか」
夫のカウンセリングは数回行って、「お前は高い金をだしてカウンセリングを受けさせてやっても何も換わらない」といった理由で止めてしまった。

カウンセラーと話していてある日、理解した。 「おかあさん、今の生活についてどう思いますか」 「うーん。ウチはステップファミリーなので、色々と問題も多いのですが、何処の家でもひとつやふたつは問題を抱えていますよね」 「おかあさんの育った家でもそうでしたか」
「違いました」
「じゃ、何故、今の家庭が普通だと思うのかな」 「それは・・・私が今の家庭生活を継続したいと考えているからでしょうね」
「でも、今のままじゃおかあさんは苦しくて仕方がないのよね」
「我慢できないというほどではありませんけれど」
「でも、我慢をしていると、いつも感じていますよね」
そう、私はいつでも「私が我慢をすれば何とかなる」と思い続けていた。 息子の行状にしても、実父母は何を言ってもしても許される。継母である私はめったな事は口には出せない。夫の暴力や暴言に対しても私が機嫌を取ってやれば、または爆発した後に甘えてきたら許してやれば、その場その場は乗り切れると思っていたし、またそれで済むのだとおもっていた。息子の実母の言動については「実子と一緒に暮らす事ができず可哀想なのだから」と、理由まで付けてやっていた。

カウンセラーか言った。 「おかあさんは間違っていないと思っていると思う。でも、それがどの人も成長できない原因を作っているとは思わないかな」 私は心外だった。それまで、どんな時にも3人が勝手に始めては収拾が付かなくなった頃に呼ばれ、後始末をしてきた。実母の嘘で息子が荒れ狂った時。父親と息子が殴りあいになったとき。息子が包丁を父親に突きつけたとき。家の中でも外でも、お構いなしに喚き、物に当たり、泣き叫ぶ彼らを宥め、何処まで行ってしまったのか解らなくなった元々の原因を探し出し、収めてきた。 一体、それのどこがいけないのだろう。 私がそれをしてきたからこそ、現実に暮らしが成り立っているのではないか。
カウンセラーの言葉に私は少々傷ついた。

私のせいで誰も大人になれない。

その頃、よく見る夢があった。 車を運転していて、アクセルを踏んでもスピードが出ない。 乳母車にすら追い越されてしまう。 上り坂でブレーキをかける。車はゆるゆると坂を下ってゆく。 アクセルを踏んでも走らず、ブレーキをかけても車は止まらない。 ハンドルを切っても手ごたえがなくクルクルと回るだけ。 クラクションを叩いても音は出ない。 そんな車を捨てることも出来ずにイライラと運転席に座る続ける自分。 何度も同じ夢を見るうちに「また、この夢か」と、夢の中で思っていた。

私は「我慢しなくてはならない私」を捨てた。 夫と息子の喧嘩を止める事も止めた。 息子の実母からの電話は「話すことはない」と切る事にした。 そこに至るまで十年かかった。


・・・to be continue