■私は、セクハラDVの被害者■ |
私は営業マンの妻です。
2007年春夫は会社での金銭横領が発覚し自宅待機となりました。刑事か民事か訴えられる可能性もあり、懲戒解雇になるらしいので、
ローンの残った共有名義の家を一方的に今すぐ家を売って自分は実家に帰り、私と子供たちは出て行くように指示されました。
これまでの経緯を思うと、最後にしてあまりにもひどい行為です。
こちらの状況や気持ち(今更わかってもらえないでしょうが)まったく無視して無謀に事を進めています。
と言うわけで子供23歳♀社会人と20歳♂大学生の2人に『このさき一人暮らしをするのもいいし、パパと一緒にいるのもかまわない。どうするか自分で決めて』と聞きますと2人とも私についてくるとのこと。
決まったとたん子供たちが家探し、引越、し手配、どんどん進めてくれて私は離婚調停を申立て現在別居中です。
私の敵は2人モラ夫とモラ&セクハラ義父。
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セクハラとは、性的嫌がらせ・性的おびやかし」と訳します。時・場所・相手をわきまえずに、相手を不愉快にさせる性的な言動のことです。望まない行為を受けるという。
「基本的人権の侵害」にあたります。ジェンダー(社会的につくられた性差)にもとづく考えを他人におしつけることもセクハラになります。
最近聞くようになったモラルハラスメント。モラ夫と言う言葉があまりにも似合いすぎるダンナです。
あたしの悩みに対してまともに相談にのってくれず、フォローしてくれないダンナも最低な奴ですが、もっと最低な奴がいます。
その人はとにかくはよ死んだらいいのにと思うくらい嫌なひとです。
ていうか、はよ死ねと思っていました。その人とはダンナの親父で2006年の3月に亡くなりました。県警に勤めてました。
退職後に勲章ももらったようですが、マイホームという亡霊にとり憑かれていて、結婚後家を買うまで、とにかくあえば家家家の話ばかり。
暇があれば電話で家、家マイホ〜ム!!それだけ家賃を払うなら家を買えばよいのにと始終小言を言い聞かされ続けました。
今でも、近くで見ているようなきがします。公務員学校の先生や警察官が痴漢やセクハラをしたら、一般企業の人よりカナリ過激に報道されているけど‥
ここ最近はセクハラ、パワハラ、DV,モラハラという言葉ができ、定義づけられ、会社でも規則ができたり相談場所ができていますが、
昔セクハラ痴漢にあった女性が言いたくてもいえない泣き寝入りする気持ち私にはよくわかるのです。
言ったところで、俺はやっていないとか現行犯証拠となると難しく、また、訴えてみたところで、自分のうけた恥ずかしいことを
言葉にして人前でいわなきゃならん。本当のことやしくやしいし悲しいのに知らないとか違うといわれたら、自分がさらにみじめになるだけ。
そのまま泣き寝入り‥
ある日ダンナにこんな質問をしました。私がもしレイプされたらどうする?
もちろん、なぐさめてくれて相手に制裁を加えるといった返事をきたいしていたのだけどぉ。
『それは、おまえにスキがあるからや』って。浮気したら三行半だのなんだのとにかくスゴイヤキモチ焼きで、ほかの男性との接触はモチロン、私たちが付き合う以前のことまで何年経ってもグチグチ言い続けるひとやから
てことは拳銃つきつけられてレイプされても捨てられるってことやんなぁ。死んだほうがましかも、それなら言うだけ無駄か。
嫌なことは忘れようとしたけど、人間、死んでも許せないことがある。だから、2006年の7月義父にセクハラされたってダンナに暴露した。
手篭めにされたわけではないけれど、絶対に許せない。お決まりの如く、そのとき言うてくれてたら何かできていたのにって今は言うけど‥
ダンナとまだ仲良しやったときはマジ黙って忘れたほうがいいとおもっていたし。結婚が決まったころからほかにも、義父のすることで(セクハラではないけど)本当に困ったことがよくあった。
ダンナは相談しかけても聞いてくれないし、聞いてくれても好きにさしとき〜なんて言う人やから言うだけ無駄やろなあ。
でも意を決して言おうとしたら、内容も聞かぬうちに『親の悪口を絶対にいうな!!』と逆切れされてえらいおこられた事がある。
セクハラDV モラハラ、『俺はいいけどオマエはあかん』『女のくせに』そんな環境の中で、私は子育て、震災の二重ローンの返済のため必死で働き、
解雇を含む5回転職歴のダンナのしりぬぐいばかり。
過労、疲労、十二指腸潰瘍などの神経性のさまざまな病気、さらにはパニック障害、うつ病と、心身ともに病みツライ毎日を送っていますが
子供たちのおかげで、やっと離婚する決心がつきました。
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ダンナとは同じ大学で知り合いました。同じ学部で1回生の終わりごろから付き合っています。
学生のときに一度浮気をされました。それでも、わたしがいいと言われそのまま卒業、就職。
1982年婚約、なぜか私の知らないところで結婚式場や日取りが決まっていたのです。
自分なりの結婚式の夢みたいなのがあったのに、希望もいえないままありきたりの総合結婚式場。
新居も、知らない間に食器や家具が買われて、友達がお祝いに新居でいるものを買ってくれるというので食器を頼んでたのに
みんなキャンセル。仕切っていたのは義父で、ダンナに言っても『好きにさせとき〜』って、ここ、誰が住むうちやのん!!また夢がとおくなった。
1983年結婚。
1984年2月に可愛い可愛い娘がうまれた。
普通出産したら遠慮のいらない自分の実家にいって「静養する」ものなのに、なぜか実家から自宅に直接戻らずに数日間ダンナの実家に行くことになった。
義父は写真をとるのが好きで娘の写真をいっぱい撮っていたし、おっぱいを飲んでるときや、授乳後の私が服をきちんときてない
姿も撮られた。
ある日娘におっぱいを飲ませていると、カメラをもって前に来た。私も授乳になれてきてトレーナーで上手にかくしてうまく飲ませているのに、膝がくっつくくらい前にすわるとカメラをむけておっぱいを飲んでいるむすめのほっぺをつついて、
目を細めてうれしそうな顔をしながらシャッターをきった。恥ずかしいしめちゃ気持ち悪かった。少ししたらなんとカメラをのぞきながら娘の顔が見えにくいと私のトレーナーをまくりあげた。
ビックリ!!
そのままむこうにいってしまった。義母は別の部屋にいて、まったく気づいていなかった。ダンナに言おうかと思ったけどなんか言い出すきっかけがなくて、そのまま数日がすぎた。
言ったところで、問い詰めて、『やってない』て言われるのもいややったから。あとで、きいた話では義父は私の実家にいって、
『おたくの娘さんはおっぱいがおおきいですなぁ』といってたらしい。
私の両親はホンマあきれてマジきれてた。
やっと我が家にもどったダンナの帰りが遅いので昼間はほとんど娘と2人の生活。
ある日平日に近くにきたからといって義父がやってきた。ちょうど授乳タイムだったのでのませていると、またまたまん前にきた
娘の顔をみているのか乳をみてるのかわからんがあっち行ってとはいえずそのまま。
すると息苦しいのちがうとか言うて娘の鼻がみえるようにわたしのおっぱい押さえた(WAO!!)
すぐ手をはなしてキッチンでタバコをすうと帰っていった。いったい何をしにきたんやろムカついた。
ダンナが帰ったら絶対に言おうと考えていたけどダンナの帰りは深夜で話す機会を逃した。
明日にしよう‥
ダンナは大のテレビ依存症で、帰ってきたらまずテレビのスイッチ。テレビと結婚したほうがよかったのにと思えるくらいひどい。
私が、番組を見ていても平気ですぐにチャンネルを変える。それも、コマーシャルになるたびあちこちパラパラかえる。
ダンナはテレビを見ている時に話しかけたら怒る!音を立てても怒る!
そのため、なんか言い出すきっかけがなくそのまま日が過ぎてしまった。何ヶ月かすぎて、娘は白にピンクの模様のノースリーブきていたから真夏かな。
平日の昼間スイミングにいってかえってきた日、義父がきた。偶然にもまたおっぱいを飲ませていたというか6ヶ月ごろまで娘は4時間おきにはおなかをすかせ必ず泣く子やった
片方のませてもう片方抱きかえようとしたとき、娘を支えるように義父が手を出してきた。娘にふくませようとした乳首をいきなりつまんだ。なにかわけがわからずそのまま授乳をつづけた。
悔しすぎてそのとき起こったことをめのまえでいえずに目をあわさず黙っていたら帰っていった。
夜ダンナが帰ってきて言おうとしたけれどなにか別の話題になり言いづらいのもあり、テレビを見始めたのでまたそのままになってしまった。
いつか、落ち着いてきちんと話そうと考えた。それからは当分義父は一人では昼間にこなかった。
もしまたこんなことがあれば今度こそは絶対にダンナにいうつもりだった。そのうち授乳も終わったでも思い出すたびに悔しさがこみあげて気持ちのやり場がない。
スイミングの友達にそれとなく遠まわしに話してみた。もう授乳もおわったから大丈夫違う?言われてもしまた機会があれば言おうてことでとりあえずわすれることにした。
なにかかなしくて悔しい思いがいつまでもはなれなかったし、結婚式や新居の準備まで自分の好きにしてしまった義父がだいきらいやった。
フォローしてくれないダンナにも不満や疑問がたまっていく。
それでも、ダンナの親父やし、子供可愛がってほしいからとおもって我慢して普通にふるまった。
ある日、ダンナが何か自己啓発のセミナーにいきはじめた。オマエにもきっといいことがある!!と言って行き始めたので、すごい期待した。
生活ががらっとかわった、休みの日もダンナはセミナーに出かけていくので娘と2人きりで寂しい毎日が続いた。
ある日プールからかえって昼寝をしていたらチャイムが鳴った。いらないセールスも多いのでそーっとのぞくと義父がたっていた。以前の嫌な日のことを思い出した。眠かったし居留守をつかった。
一度階段を下りる音がしたのでそのまま娘と昼寝しようとしたら、玄関のドアがあいて義父が入ってきた。
合鍵もってた!
寝てたっていうと、せっかくきたからおみやげだけ置こうとしたと言ってタカラブネのシュークリームを差し出した。
3時間くらい居座ってから帰っていった。
もしお風呂にはいってたり着替えてたときイキナリあけられたら最悪やな。それから必ずチェーンをかけるようにした。
その後当分嫌なことはおこらなかったけど、ダンナが友人の勧めでいった自己啓発のセミナー。高い費用もかかるが私にもきっといいことがある!と約束した。
費用を借りてでもいくというので、いざというときのためにおいていた数十万のお金を全部出した。
住宅積み立て以外の貯金がゼロになった。それからのダンナは、わたしや娘のことはうわの空、セミナーにとりつかれ、休みの日もずっと出かけるようになってしまった
ある日、娘がひどい風邪をひいて、さらに私も9度熱があったときも、知らん顔ででかけていった‥
仕方がないので、毛布でくるんでベビーカーにのせて、フラフラしながら小児科にいった。小児科の先生が私の薬もくれた。助かったと思ったけど、薬が効かない。鼻炎をひどくこじらせていて
急性副鼻腔炎。起き上がれなくなり実家の母にきてもらった。
それから鼻炎が癖になった 。セミナーがおわればいいことがおこると信じていたけどすごく寂しかった。
セミナーの内容は規則により関係者以外には秘密どこにいるとも、いつかえってくるともわからない。
その当時は携帯電話もなく、連絡もとれない。なにもいってくれないし、私の存在、なんやろうって悲しかった。
とにかく終わるのを待った。私の友人が興味をもってそのセミナーに行った。友人とダンナがコソコソはなしているのを遠めに見ていた本当に悲しかった
そうこうしてるうちに妊娠した。二人目の子供ができたらまた、家庭のほうを見てくれると思い我慢した。
ダンナは相変わらず、仕事も忙しく、暇があればセミナーの関係者と会いに行く。
娘3歳の2月息子はまだおなかの中セミナーの関係のダンナの友人宅へいった。
セミナーの話はきそくによる極秘!
途中から内輪の話をするとかではずす事になり、娘をつれて寒い寒い阪神パークへ‥
何も話してくれないダンナが友人の前で普段あたしにはみせない楽しそうで心地のよい表情をみせる。
寒い遊園地。娘の手をひいて重たいおなかかかえて歩きながら涙がでてきてとまらない。
家族ってなんやろうって二人うまれても生活かわらないのではという不安でいっぱいやった。
5月に息子が産まれた。
そのとたんに義母が入院した。産後でまだ具合わるかったけど、思い切りバタバタした。
義母は手術をしたけどなおらないっていわれた、余命の宣告をされた。やっと首が据わったくらいの息子をだっこし、娘の手を引いて大阪まで民間療法の説明を聞きにいった。
後の出血か生理不順かわからないまま、すごした。子供らを自分の実家にあずけて病院にいったりした。そんな生活だから息子には母乳とミルク半々やった
義母の手術のころ抱っこしてる息子が泣いた。そばにいた義父がおなかすいてるんちがうんおっぱいあげたら、その一言で頭の中で忘れかけていたというか、封印していた悪夢が再現した。
乳首をつままれた感触を思い出してしまっためまいと吐き気がした。義母の入院中ダンナの実家にいることも多かったので、授乳はついついミルクにした。
そんなことしてたらおっぱいがでなくなってしまった。母乳で育てたかったのになごめんなぁ(泣)
セクハラをうけた影響かわからないけど、なんか体の感覚がおかしくなったのはちょうどこのころからでした。
夜フトンにはいると前戯もなにもなしイキナリ乳首をさわられる(親子で同じことするなぁ)
いや、忘れよう心の中で葛藤する。
でも、さわられると毎回とても悲しい気分と吐き気とこそばいような全身不快感が襲ってくる、言わずに忘れてしまおうと努力した。いつかきっと治るって
そのまま無理して我慢しつづけたせいかな夫婦のあたりまえの行為が苦痛でしかなくなっていった。義父は相変わらず家家家と言い続けている。
結婚5年目ある程度積み立てもできたしついに家を買った。というか私は賃貸でも良かったけど義父を黙らせるには買うしかないとおもったし 、また義父はいくらか頭金を援助たことを親戚じゅうに自慢していた(そう聞こえた)。
私は専業主婦やったし、娘は幼稚園正直家計がめちゃキツクなった。
自己啓発セミナーいったノリ?かな〜。ダンナは一回目転職不安やったけどあたしが努めるわけやないし。
環境かわればまたいいようにかわるかもなんて考えた?
いつも期待ばかりして思うようにならないけど、それでも期待した。とりあえず給料が増えた。車を買ったし、少し生活が好転したと思った
バブル崩壊、会社がアブナクなって、ちゃっかり都合よく人の紹介で二回目転職?しかし、毎日会社批判の日々。
それも家庭をまもらなあかんダンナが独身女性と一緒になって会社の悪口ばかり言い続けている。仕事中に実家によったり、普通では業務中にしてはいけないことを平気でするので、私が、再三指摘したにもかかわらず、調査がはいり解雇。
自分のやっていることがいいことか悪いことかわからんらしい(泣) この会社にいるときに阪神大震災に遭った。家は全壊多少のけがもしたけど一応無事やった
とりあえず私の実家に非難した。地盤沈下で傾いているけど十分住める。2月にダンナの親から是非こっちに来てとの希望でそっちの実家にいくことになった。
子供たちはその土地の小学校にいった。
ちょっとした相談に学校へいくと、先生が支援用品をどっさりくれて、話をろくにきいてくれなかった。
同じ市内やのに、ここは被害が少ない。私らは被災者やから、モノをあげる。だから黙っときみったいな学校やった最低や!
案の定、5年生の娘は、ストレスで耳がきこえなくなった。近くのスーパーでバイトをしながら、落ち着かない生活仮設住宅も老人優先であたらない。
そんな中でまた悲しい出来事がおこった。
3月のある日のことダンナは会社にいってて子供は居間でテレビ私は奥の6帖で着替えをしていたら、いきなり義父がフスマをあけてはいってきた。
ドアいうてもフスマやしさっとあいてしまうのはわかるけど、ノックもこえかけもなし。
おとうさんあたし今着替えしてます。言うとちょっと探し物するだけ言うて入ってきてでて行かない。
普通はゴメン言うてすぐ退散するやろに、もう一度、いま着替えてるんですけどて言うたら「わし、目がうすいから、もの取りに来ただけや」し言うてはっきりいって下着脱いでたし、あまりにひどい。
あたしの周りを2回はまわったなああちこち棚をいじくってやっとだまって出て行った。それもフスマあけたまま。
さすがにキレタ!
帰ってきたダンナにすぐに言って、居間で泣き叫んだ。義母はへんなにやけた顔でおろおろするだけやし。問い詰めたダンナとあたしに義父はタバコを吸いながら『いやらしい気持ちなんかない。目が薄いから見えんし、自分の家やのにきゅうくつなことや』
それだけやった。
人間、していいことと悪いことがある。警察官のくせにそんなこともわからんらしい(怒)
目の悪い男の人は女性の更衣室にはいってもいいのかなあ。逮捕されるのとちがうのかな。目が薄いいうても一人で買い物にいったり、外を歩いたり本をよんだり
電車にも乗れる!十分してるやんみえてるはず!
そのあとでダンナはあたしになぐさめの言葉ひとつなく、悪気はないんやからゆるしたってとサラリとそれだけ。
そのあと娘の耳のことで病院行ったり余裕がなく、ある日、三菱病院に神経科のいいお医者さんが震災のケアに来てるときいたので
すぐにいくと先生にえらいおこられた子供をすぐに元の学校にもどしてやりなさい!できるでしょって、すぐにダンナの実家を出た。自分の実家から毎日車で寸断された高速がつかえないので大渋滞の道路を2時間かけて
元の小学校に通った。娘の耳はうそのように治った。もうダンナの実家には二度といかんとこて決めた!
子供のことでダンナと意見がよくぶつかった。少々のことですぐに怒る。できないことを教えないで失敗したら怒る。
どっちがこどもかわからないような言い争いをする。指摘すると私が怒られる。娘のおしりを手のあとが何日ものこるほどたたく。
息子を電気のコードを鞭のようにしてたたく、みみず腫れが、何日もなおらない。ぶっ飛んで悲鳴をあげて泣く、死んでしまうかとおもったことがある。
とめに入ろうものなら私がおこられる。私も殴られたことが何度かある。力が強い、本当に痛いしこわい。
息子が2年生くらいのとき親子で公園でキャッチボールの「特訓」していた。
とても取れないようなキツイボールをイキナリ投げられてとれずに困って怖がっている息子がいる。
親父にきつく怒られている。そんな息子を息子の友人が見ていた。こわいおやじやなあと言い、それが、学校でのいじめの発端になった。実際がんこで聞く耳もたずの息子にも手を焼いていた私はダンナに相談した。
これでは手に負えないと言った。協力を求めたつもりやったし、自己中心的で自分勝手な『アンタに似てるんやからなんとかしてよ』と言いたかったのもあり
すると、息子に『ママはお前をよう育てんいうてる。施設にいれるぞ』とどなりつける。
それ以来施設にいれるぞという言葉が心にこびりつき、今も実父にプレッシャー感じているという。
母親のカンていうのかこの子はすごく我慢しているようにも見えるでもなにかおかしい、相談所や子供病院あちこち回り
調べたら学習障害、てわかった初耳でいろいろ調べた。8歳になっていたけど、育てる立場から幼稚園くらいの気持ちに戻してみることにした。人付き合いが下手で、性格偏っているかもしれない。中学までは学校がいやで、毎朝車で送っていった。
でも、高校くらいからは友達もふえ、いいほうにかわっていったと思う。病気も1つづつ、クリアーしていった。
ダンナにいまになってキャッチボールの話、指摘しても『男やからこのくらいせなあかん!』って言う。
他の親父と息子の姿を観察した戦いごっこをしてもキャッチボールをしても親父が下手役、悪役になり、息子が勝って自身をつけさせるのが上手い。
うちのダンナは子供に勝って優越感を味わっている。
最近になって、娘がこんなことを言ってた。パパにたたかれてるとき、なんでママが助けてくれないのか思ってたって(反省)。やりすぎはやはり止めるべきやった。
平成7年の阪神大震災で家が全壊!たてかえた。毎月二十数万円のローン返済、わたしががんばればいいんや!ととにかく収入優先パートをフルタイムにし、がんばったら管理職になってしまった。
仕事は忙しかったけど楽しいしやりがいもある!でも男性の多い職場、不定休不規則な時間、会社行事の宴会や夜の外出。
そんなのがダンナには気に入らなかったらしい。
近所に友達ができた。子供も大きくなってきたので夜飲みに行ったりするようになった。外で食事していると電話がかかってくる。『どこおるねん!何時にかえるねん』怒鳴る。
声がでんわからもれてまわりに聞こえる。12時に帰るといっていてみんなでタクシーで帰ったのが12時少しすぎ。
帰るとドアにチェーンがかかっている。遠慮がちにノックしたとたんドアがあいて顔を思い切り殴られた。
それ以来、ドアを開けるのが怖くて‥
いまだにドアをあけるのはこわい。
それ以来、近所でせっかく仲良しになった友人たちから誘ってもらえなくなった(涙)
余談だけどこのずっとあとKちゃんと夜遊びした。Kちゃんの子供は小学生ダンナからきたメールには『今夜は娘と水入らず。ゆっくり楽しんできてくださいネ』
あ〜うらやましい。
娘はは高校合格!しかしダンナがそのあとすぐに解雇されたもんやから、あたしは十二指腸潰瘍で入院腹膜炎一歩手前で死ぬトコやった
医者に原因断たないとなおらないいわれたなぁ?
解雇されなければローン払えるはずやったのにの思いがいまだに離れない。高校になった娘は15歳からバイトして家計助けてくれる。それでも足りない。
修学旅行の費用私の親から借りる。なにかにつけてしょっちゅう助けてもらったけどローンかえせない。
私はずっと体調がわるいので、医者のすすめで心療内科にいった、不安神経症(今で言うパニック障害)別居をすすめられた。でも経済的にそんな余裕がなかったし、自分が我慢すればよいということにして
さらにがんばった。
ダンナはとりあえず印刷屋に就職した。でも収入が激減年収にしたら200万円近く減った。まじ休日にアルバイトでもすればいいのにと思った。
でもダンナは大好きなテレビでリストラの番組をみてしきりにうなずいていた。少しでもお金を浮かすため毎朝みんなのお弁当をつくり、ダンナを少しはなれた私鉄の駅(交通費がすこしでも安いので)まで車で送っていき、それからダッシュで自分の会社に出勤した。
震災でのダブル住宅ローン支払いが間に合わず、督促がくる、銀行系はうるさいもんやから払って、ついつい神戸市に言い訳しながら滞納どんどん滞納必死で稼いでやりくりしなから、がんばってるのに
また督促状それでも足りない親に借りる。
そ〜こ〜してるうちに限界。ダンナに相談してまた会社国民金融公庫などでお金をかりた。
返済は追い付くも支払い増。それでも稼ぐためネットオークションしたりもう必死。督促がきたら、きまって私がおこられる、おこられるもんやから、また、やりくりする。
親に借りる、自分の会社で借りる。返済が増え、さらに家計を圧迫する、の悪循環。幸い?ユニフォームがあったので私は服がいらなかった。
普通の女性並みにバッグもくつも買わなかった。店で売れ残った食品たべてこづかいゼロでがんばった。
たまに友達に買い物付き合うけど、ファッションに目がいかなくなった自分が女として哀れやった。
H14年あたりから耳が激痛、きこえなくなった。めまい、偏頭痛、子宮筋腫、続くようにひざの手術。疲れてヘトヘトでも、夜になると付き合わされる。夫は寝ているのかおきているのかわからない。上向きに寝転んでじっとしたまま。こえも出さない私が手をとめとめをあけて怒る拷問のようでひどいときは朝の4時まで終わらない。
寝不足でそのまま仕事に行って運転中ついうとうとして高速で路肩につっこみそうになったことがある。いやでいやで仕方ない
拒否すると、「お前は文句ばかり言う。男は出るものがあるんやから」っていわれた。
2002年2月眠くてしかたがないのにイビキで寝られないのではらわた煮えくり返るといった気持ち。
居間で寝てみた。なんかすごく寝心地がよかった。その日以来寝室では寝なくなった。すごく開放された気分で少しだけ楽になった
15年秋長年つとめた会社をやめた。親の介護やのなんやの理由つけたけど本当はつづくカラダの不調と生活をかえたかったから幸い職にはつけたけど給料がさがった。
生活できないので土日は食品工場でバイト休みなしの日がつづいた。寒い工場は病んだひざにはきつかった。
でも、子供らがすごく協力してくれた。ご飯をつくったり、お風呂をいれたり。
ある日うちにかえったら、私のアルバムがビリビリに裂かれて捨ててあった。
わたしのおじいちゃんやおばあちゃんの写真貼ってたのに。
高校のときのアルバムも捨てられた。
高校のとき付き合ってたひとがいた。
そのことを結婚してからもなんかいも嫌ごと言われた。
そんなこと知ってて結婚したのにそれにダンナも私の前に付き合ってたひとがいたのに。
家の中は片付かず、とにかく稼ぎ優先で頑張るある日、ダンナがあたしの親に電話をした。
家の中があまりにも片付いてない。とか、いろいろ言いつけた。毎日長時間勤務、ひと月200時間以上働いて月の休みほとんど無し、すべてこなすのはあたしには、無理やった。
16年12月、うまく転職(現職)見つけたと思ったら1月に交通事故。
カラダがボロボロになってもた。あいかわらず家計はきつい。でも娘の就職や自分のほんの少しの給料アップで滞っていた借金を少しづつ減らしていけるようになった。
リフレッシュや自分のことを考えるようになった。友達づきあい旅行にもいってみた。年令、性別関係なく、友達をふやして、気のあう人や、趣味のあうひとは大事にしたいとおもった。
H17年、4月友人の誘いで結婚後初めて友達と三重県の温泉に一泊旅行した。すごく楽しかった。
しかし、夜になるとダンナからメールがきた。のこぎりどこにあるのか!?ってそんなのわからない。
何回も何回も同じメールがくる。友人がのこぎりなんさぁ男がか管理するもんでね、ほっておき(笑)
あきらかに嫌がらせやとおもった。
でも、気が気ではなく翌朝食事を済ませて昼食(松阪牛)キャンセルして車とばした。急いで帰ってみると部屋がめちゃくちゃで娘が片付けながら泣いてた。
あたしが、でかけると何か嫉妬や疑いや、さみしいとかダンナが勝手にイライラしているのがわかるあまりにもレベルの低い嫌がらせをうける。あたしにだけならともかく、子供らが泣く。ストレスをためる。
やっぱり限界がきた?
泣いてばかりいたら、息子に怒られた。パパはいつも自分の都合でおこってばかりやし、へこへこして我慢してるママもいいかげんにせな腹が立つって
それでも、現状維持で、なんとかすごせればいいと思っていたんやけど、18年春、ダンナにこういわれた。
今の状態家族といえるか?自分はスキンシップがほしい。知り合いが、中国に愛人がいて、このままセックスレスがつづくなら自分も‥云々
この状態が続くなら将来の準備せなあかん「おまえはどう思う?」って聞かれた。 お前はどう思う、この言葉に答えるとあとあと「お前があのときああいったこういった」と、何でもが私のせいになる。
だから、まともな返事をかえせなかったけど、もうこれは慰謝料ふんだくって離婚しよって決めた。
実家に帰るようにもいわれた。
2006年3月、ずっと療養していた大嫌いな義父がやっと亡くなった。こんな奴でも立派に葬式してもらえると思うとばからしくなった。
ただ、そのあと早く死んだらいいなんておもっていたせいかなぁ。
説明のつかない変なことがおこったから怖くて、おちつかなくて眠れなくなった。
胃も痛いし、偏頭痛の予兆でしょっちゅう目がみえなくなり、病院あちこちまわり仮面うつ病といわれた。
2006年6月高校のときの友達が北海道にいるので、その人をたずねて何人かで旅行にいった。
久しぶりにあった友人たちは親と同居、介護していても、いろんなツライことがあっても幸せやと言う主人がやさしいからって
私だけ違う世界やった。
そのころから、いろんな人にうちの状態を話すようになった、
誰もが。離婚したらとか新しいのみつけたらいいねんとかかんたんに言う。
事故の後遺症もあり、確かに独り立ちするには経済的にキツイ、
まだそんな養ってくれる人が必要かもしれないけど、男女関係の付き合いは私にはもう無理、したくないていうか性拒否症で子宮筋腫で年中出血してる。誰が面倒みてくれるねんやろ!!
翌7月高校の同窓会があった。
高校の‥というと、いつも必ずなにか起こる。
その日の夜私が二次会に参加してるとき、息子がダンナとこじれて大喧嘩。娘が息子をつれて私の実家ににげていった。
これを機会に胸のうちにしまいこんでたことをダンナと義母のまえで吐き出した。
これまでにこの文章に書ききれないくらい一生はなし続けても話しきれないくらいいろいろなことがあった。
確かにいいこともあったと思う。でもいいことが5個あったら悪いことが100個ある。
でも、いまはまだ何もおこらない。つぶれる前になんとかしなきゃ。
2006.8
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